序章

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 さぁ――……と、音がしていた。  脇息(きょうそく)片肘(かたひじ)を乗せ、目を閉じていた青年は、ふっと(まぶた)を押し上げた。    上げられた(しとみ)のほうに目をやると、雨が降っているのが見えた。  (ぶん)(だい)には開きっぱなしの書と、(かたわ)らには式盤(ちよくばん)(※占いの道具の一つ)、どうやらうたた寝をしてしまったようだ。   ――まさか、昔の夢を見るとは……。  青年は(ひたい)に手をやって、()(ちよう)の笑みをこぼす。  今や、希代の陰陽師と言われる、安倍晴明。  その過去は、暗いものだ。  (あやかし)の血を引くがゆえに、周りからの(ちよう)()を浴び、()()の目を向けられた。子供だろうと(よう)(しや)はされなかった。  そんな人々の目から、彼は逃げた。(やしき)()もり、(ひざ)を抱え、自分で冥がりを作ってそこに逃げ込んでいた。  そのほうが、楽だと思ったのだ。  だが実際は、冥がりの住人も優しくはなかった。いい(えさ)が飛び込んできたとばかりに、この躯を(ほつ)してくる。  実際に父に聞いたわけではない。あれは妖の子だと、周りがいっていただけだ。  父に聞かなかったのは、真実を知るのが怖かったのだ。はたして現在(いま)なら、()()()(※現在の大阪府阿倍野区)で暮らす父はなんと答えるだろうか。 ここ何日か、(いん)(うつ)な雨が降っては()んでを繰り返している。  晴れていれば依頼された(れい)()を届けに外に出るが、(かさ)(みの)()けてまで出ようとは思わない。はっきりいって、今も人間づきあいは好きではない。  (おん)(みよう)(りよう)(ぞく)する(おん)(みよう)()という職に()いてはいるが、彼に対する奇異の目と(さげす)みは消えたわけではない。子供の時のように逃げはしないが、忌み嫌っておきながら霊符を依頼してくる彼らの気が知れない。  ふと、晴明はその存在に気がついた。  いつからそこにいたのか、青く燃える鬼火が儚げに揺れていた。  (あだし)()(※(ふう)(そう)())ならともかく、ここは晴明が暮らす邸の中である。  ――どおりで、夢にまで鬼火が出るはずだ……。  渋面で見据えるも、晴明はこういったものには慣れていた。昔は怖かったが、陰陽師となると人よりも、異界との付き合いのほうが多くなった。  誰ぞから(こぼ)れたモノに違いはなさそうだが、この躯をくれてやるつもりはない。おとなしく()(がん)に渡って欲しいが、鬼火は消えるつもりはないらしい。  仕方がない――。  晴明は(たい)(さん)()(くん)(※仏教で言う(えん)())を念じ、(かしわ)()を打つ。目の前で(さま)()(こん)(ぱく)を、(めい)()へ送るためである。鬼火はいったん大きく揺れて、溶けるように消えていった。  ようやく静かになったと思えば、今度はぴちゃぴちゃと水音が聞こえてくる。  晴明は、(たん)(そく)した。 「今度はお前たちか……?」  板敷きの床で、()(すん)(※約十五センチ)ほどの(ぞう)()と、(かえる)()(しよう)(いも)の葉を(かさ)()わりして跳ねていた。  一応、妙なモノが入り込まないよう結界を張ってあるのだが、こうした小物は簡単に入ってくる。特に雑鬼は、人間の家ならどこにでも()んでいて、珍しいものではないが。 「いやぁ……、よく降るよなぁ」 「人の家を水浸しにするつもりか……?」 「そう怒るなって。雨宿りくらいさせろよ。雨に濡れると可哀想だろ? 俺たち」  いけしゃあしゃあと言ってのける雑鬼に、晴明は半眼で腕を組んだ。 「どこが?」  第一、蛙の化生は雨に濡れたところで、ちっとも可哀想ではない。  それよりも、芋の葉から(したた)る水滴のほうが心配である。  湿気対策にと蔀を上げたことを後悔しつつ、晴明は語気を強めて言った。 「消えろ」  (はら)われては適わぬと(さと)ったか、二匹は入ってきた蔀から出て行った。  さぁ――……と、雨が降る。  無駄に広い(やしき)は、この数十年住人は一人である。棲み着いている雑鬼を入れるとその数ではないが、晴明は十四の頃から(ひと)りで住んでいる。  人間嫌いになった息子をどう思っていたのか、父・益材(ますき)はさっさと阿倍野に行ってしまった。それは息子を任せられる人物に出会ったからだろうが、それにしても(はく)(じよう)な父よと当時は(なげ)(あき)れた。かの人は、今もたまにふらりとやって来ては戻っていく。  彼曰く、王都での暮らしは()()めないらしい。  あの時――。  夢の中で、晴明が(つか)んだ人の手。  冥がりに沈みかけた幼い彼を引き上げたのは父だったのか、それとも陰陽師に(いざな)った()だったのか。  立ち上がり、(すの)()(えん)のほうへ向かった晴明は目を(みは)った。  雨の中、(めん)(よう)な華が揺れていた。  あの鬼火のような、青い()(がん)(ばな)が一輪。  しかしそれは幻だったのか掻き消えて、見慣れた庭の景色が広がっていただけであった。  彼岸花の別名は〝死人花〟。  華を辿れば、自然と冥がりに着くという。  どうやら〝向こう側〟は、晴明を冥がりに引きずりこむことをまだ(あきら)めていないらしい。  (いず)れ化野にて白い(むくろ)(さら)すことになるかも知れないが、それはまだ遠い未来(さき)だ。  晴明は華が揺れていた場所を(いち)(べつ)し、(まと)っている狩衣の(たもと)(ひるがえ)した。
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