10.仁王・表

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10.仁王・表

 電車は予定通りにしか進まない。苛立ちながら世田谷線経由で京王線に乗り換え、笹塚を過ぎた辺りで、久紀からのメールを確認した。  多岐絵と光樹が、新宿連合のターゲットにされている、だと……?  影山組がフィリピンルートで仕入れたブツを、佐久間が棚ボタで手に入れ、六曜興業への構成員入りの手土産にしたまではわかる。ところがそれが行方不明となって構成員入りも頓挫し、影山組にもバレて追い込みをかけられている癖に、そのブツを横取りしたのが警察で、警察を脅す為に多岐絵たちを狙ったとでもいうのか……。 「アホか、アホすぎるだろ……」  笹塚から新宿までは、都営新宿線の幡ヶ谷と初台の二駅分を通過する為、酷く長く感じる。しかも幡ヶ谷の踏切直前で地下に潜るのだ。新宿まで、まるで数時間も暗闇を走っているかのように感じ、逸彦は自動ドアの割れ目に指を差し込む思いで駅の到着の瞬間を待った。 「くそっ、早くしろよっ」  ホームに入ると、ダラダラとスピードを落として停止位置までゆっくり進んで、漸く止まる。アナウンスはいいからとっとと開けろ!! と叫び出したくなる前にドアが開き、逸彦は猛ダッシュで飛び出した。  靖国通りから新宿区役所通りに入り、区役所前をゴールデン街に向かって折れたところの2棟目に昭和建築の5階建て雑居ビル『エース・ビル』があり、平成中期の6階建て雑居ビル『アルファ・ビル』が奥に並んでいた。区役所通りの表に面したビルを含め3棟並んだ路地の先は、まるで幽玄の夜と現世を分つ天の川のように、石畳の遊歩道が横切っている。  その遊歩道を渡ればそこは、小さなバーやスナックがひしめき合う新宿ゴールデン街であった。  この歌舞伎町1丁目界隈は四谷署の管轄だ。ホストクラブも大小が入り混じり、入れ替わりも激しい。佐久間が最近まで働いていたホストクラブ『戒』は、エース・ビルの5階に入っていた。アルファ・ビル共々それぞれ1フロアに1店舗しか入らない小ぶりのビルで、全てのフロアがホストクラブかキャバクラか、いずれかの水商売の店になっていた。  東口から地上を走り尽くし、靖国通りを渡って区役所通りに飛び込んだところで、逸彦は弾けそうになる心臓の鼓動を整えるべく、辺りの雑居ビルを注意深く見回すようにしながら区役所へと歩いた。すると、新宿区役所の緊急車両スペースに、関係者なら覆面だとすぐにわかる小ぶりのセダンが停まっていた。逸彦が近付いた時、運転席からゆらりと久紀が降りてきた。 「久紀」 「遅ぇぞ」  久紀は背中からグロックを抜いてマガジンの中身を確かめた。逸彦も少しだけ呼吸の収まりを待って、上着の下のホルターからベレッタを抜いた。  まだ夕日色にも染まらぬ午後、通りを行く者はまばらである。この街が本格的に目を覚ますのは、あと5時間くらい経ってからであろう。 「5階の『戒』だ。つい最近まで営業していたが、シャブ騒ぎが起きてからは営業していない。おそらく新宿連合のホストチームと呼ばれる奴らが根城にしているんだろう。奴らは色と脱法ドラッグで、トー横の少女達をさんざん食い物にしてきた連中だ。くそアホだがな」 「で、ウチの多岐絵と光樹と、百合香が中にいるんだな。でも何で俺達に目を付けた?」 「俺は元々この辺りじゃ面が割れてる。おまえは百合香の事件で表立って指揮してるだろ。何ならシャブをパクったのは捜一いや、深海逸彦だと思ってるとか」 「……バカだけに、容赦する気が起きない」  通りに面した窓が、換気の為か微かに開いており、中から爆音で音楽が漏れてきている。 「あれじゃ俺達が近寄っても分からないだろうな。久紀、非常階段は」 「エレベーター側に客も使用する階段がある。パントリー側の非常階段は細過ぎて、荷物も多くて突入に手間取る」  「人数は」 「後から2人入っていった。おそらく4人か……呑気に応援待ってられっか」  と二人が一歩踏み出した時、けたたましいドリップ音をさせて、本庁の黒パトであるSUVが袋小路で急停車した。ドアの音がしたかと思った次の瞬間、久紀と逸彦はむんずと襟首を掴まれた。え、と逆らう間も無く二人は現場から少し離れた表通りのビルの隙間に引き摺り込まれた。 「こぉのバカ者共がぁぁぁ!! 」  雷もかくやの大音声で二人を叱り飛ばしたのは、久紀の兄、霧生夏輝警備部警護課課長である。仁王の如く怒りに眦を吊り上げた顔で、紛れもなき仁王立ちになって2人を睨みつけていた。高校時代に戻ったかのように、2人は直立不動になった。 「中の人数も確認せず、現場周辺の安全確保も怠り、あまつさえ己の指揮権を部下に丸投げして猪突猛進とは、何たるザマかっっ!!」  逸彦と久紀は思わず首を竦めた。それでも久紀は気を取り直して兄に食らいついた。 「だが、SITの出動要請の裁可を待っていたら人質の命が! 」 「百合香はもう一週間監禁されています、しかも多岐絵は……」 「無辜の市民を巻き込むつもりかっ! 狼狽えるな、馬鹿者が」  夏樹が指をさした方向には、ターゲットのエース・ビルの隣のアルファ・ビルの屋上に、既にSATのメンバーが3人待機していた。 「エース・ビルの屋上にて合図を待て」  インカム越しの夏輝の命令に、3人はひらりとエース・ビルに飛び移った。密集地帯だからこそできる作戦である。 「SATって……兄貴、まさか無断で連れてきたのか? 」 「裁可など待っていられないと、おまえが言ったのだろう」 「マジか……」  3人はそれぞれロープを肩に巻いている。屋上に張り巡らされている1メートル程の高さの柵にロープを固定して垂下し、窓から侵入する作戦であろう。 「吉永、偵察開始できるか」 「いつでも行けます、霧生先輩」  だが、窓にはスモークが貼られていて、向かいのビルから中の様子は窺い知ることができない。窓の側に近付いて、換気の為に少し開いている隙間から確かめるしかない。そこへ、桔梗原鸞が制服警官に指示を飛ばしながら駆け寄ってきた。 「もう、課長ったら!……警視正、区役所通りと遊歩道は封鎖しました。ウチの制服警官を半径5メートルで配置します」  そう報告しながら、鸞は久紀と逸彦に防弾チョッキを手渡した。 「ご苦労。区役所には私から出入り口を封鎖すべく通達をしたが、職員はともかく利用者への徹底は難しい、制服警官の人数を区役所にも割いてくれ」 「(しか)るべく」  鸞はその場で四谷署の生活安全課に区役所へ対応を手配した。市民に接することの多い生活安全課の刑事なら、対応も丁寧で混乱を収めやすい。既に制服警官隊が3人、区役所の正面玄関を固めている。 「桔梗原君、中の様子は」 「デパートから業者のバンで多岐絵さんと光樹さんを拉致したのが3名、バンはこの先のラブホに乗り捨ててありました。ビル入口のカメラで、更に2名合流したことがわかっています。あ、見取り図はもう、現着する前に吉永さん達に送ってあります」  仕事早っ! と思わず久紀と逸彦は身支度の手を止め、タプレットを操る鸞を見つめた。 「このくらい……いつもの課長なら、音速で倍の指示は飛ばしてますよ」  人質立て籠り案件のセオリー通り、封鎖するパトカーもサイレンは鳴らさず、守備を固める警官達も極力音を立てずに滑るようにして配置についている。鸞の指示が徹底している証拠だ。  久紀はバンバンと、景気良く両頬を叩いて気合を入れた。 「鸞、悪かった。兄貴、合図を頼む。俺と逸彦はエレベーター側の階段で五階に上がり、店の入り口で待機する。パントリー側の裏口非常階段の下にはウチの刑事課からの応援を配備。鸞、頼むぞ」 「お任せを。救急隊も間も無く到着します」 「よし、行くぞ……吉永、偵察開始」 「垂下します」  エース・ビルの屋上から、吉永と呼ばれた隊員が頭を下にして垂下し、開いている窓の上枠から小型カメラを差し込んだ。  その間に、夏輝は通りの真ん中に停まっているSATのオペレーション用のBOX車に乗り込み、カメラから送られてきた画像を確認した」 「3人、4人……間違いない、5人だ。人質は窓を背に12時方向に一人、3時方向に……光樹……まずい、犯人が人質2人に危害を加えようとしている。1人は妊婦だ、催涙スプレーは使うな。3時方向の犯人二人はナイフを手にしている。残りの2人は突撃方向左から三枚目の窓の内側、銃は二丁、窓際のテーブルに置いてあるが、携帯している可能性も捨てきれない。窓と入り口から、ガラスハンマーを装備して同時に突入、人質の保護を最優先、威嚇以外で発砲はするな、首の骨以外なら何本折っても構わん、行けるか!」 「吉永、いつでも!」 「霧生、深海、配置についた!」  夏輝が腕時計を見た。 「20秒後に突入!! カウント開始」  店の入り口で、ガラスドアを破るハンマーを構えた制服警官の後ろで、久紀と逸彦は銃口を下に向けて安全装置を外し、息を潜めた。  20秒が永遠にも感じる……早く、早く! 「……3……2……1……突入!! 」  ガシャーンと派手な音に続き、2人は制服警官を押し退け、一気に中へと突入した。  窓際の2人は、突入した際に狙いすました吉永の蹴りで吹っ飛び、今1人の隊員と二人掛かりで共に確保。3時方向の1人は最も右端から突入した隊員の蹴りを食らって失神、同じく確保された。  夏輝の指示通りの場所で、多岐絵が光樹を庇うようにして伏せている。瞬く間にSAT3人に次々に拘束されていった仲間を見て、速水と横田が逃げようと店の出入り口へと向かうと、2人の刑事が銃を向けて突進してきた。 「ケーサツ!! 両手は頭の上ぇ!! 」 「動くと遠慮なくブッ放すぞコルァ!! 」  おろおろと逃げ惑う嶺二と海斗に、逸彦と久紀は容赦なく銃口を向け、仁王立ちになって行方を塞いでいる。 「どうする、嶺二」 「あんな優男、刺し殺して逃げんだよ」  ナイフを振りかざして久紀に飛びかかった嶺二は、怒りに任せた蹴りの一撃でボックス席を薙ぎ倒すようにして吹き飛ばされた。ただ奇声を上げて突進した海斗は、もう1人の刑事・逸彦に、ベレッタのグリップで頰を殴られ、床に大の字になって転がった。怒りに震えるプロの刑事に、半グレ上がりのホスト如きが勝てるはずがないのだ。  他のホストを既に確保していた隊員達が、呻き声をあげて転がる嶺二と海斗を確保して立ち上がらせ、後から入ってきた夏輝に向かって突き出した。 「多岐絵、多岐絵!! 」  早く、多岐絵を……もつれる足で多岐絵の側に駆け寄り、その肩に触れ、抱き寄せ、しっかりと胸の中に収めた。  温かい……逸彦は神に感謝した。仏様にもご先祖様にも、礼を言った。多岐絵という女を、子供を、この腕に戻してくれたことを、(あまね)く世界に感謝した。
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