1.警部

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1.警部

 ぶるりと肩を震わせ、逸彦は背広の前をしっかりと閉めた。  二週間に渡って捜査を続けてきた事件が、今漸くカタがつこうとしていた。  警視庁捜査一課第2強行犯捜査強行犯第3係係長・深海逸彦。それが今の逸彦の肩書である。階級は警部。所轄であれば、課長か課長補佐といったところか。  殺人専門であった7係から異動になり、警部昇級を機に係長へと昇進した。  だが、多岐絵と結婚をし、逸彦は迷うことなく閑職への移動を捜査一課長に直談判した。しかし、迅速・確実・安全をモットーに数々の難事件をスピード解決しまくってきた人材を、一課長が手放すわけがない。比較的人材にゆとりのある3係の係長に移動させ、基本9時5時の定時勤務を維持することを約束してまで逸彦を一課に引き留めたのであった。  とはいえ、逮捕状を持ってホシの帰宅を待ってマンションの前で車を止めて待機する間に、とっくに夕方の5時は過ぎていた。4月になって少しずつ日が長くなってきたせいで時間の感覚がおかしくもなるが、所詮、捜査一課などこんなものである。刑事である以上、時計など壊れてしまったと思った方が幸せかもしれない。  ああ、今日も多岐絵の手料理はお預けか、と車の中で天を仰ぐ助手席の逸彦に、運転席の稲田健介がくすりと笑った。  稲田(いなだ)健介(けんすけ)(かん)八郎(はちろう)の『出世魚コンビ』も、一課長の計らいで逸彦と同じタイミングで3係に移動になった。7係時代の若手・海老沢(えびさわ)修一(しゅういち)は、7係に留まっている。 「係長が一課長に、随分大きな石を投げてくださったおかげで、自分も家に帰りやすくなりましたよ」 「そういうけどさ、授業参観、ほぼゼロベースなんでしょ」 「ええ……カミさんに任せっぱなしです」 「子供って、あっという間に大きくなっちまうよなぁ」 「ええ。正直、一課に配属になってから、動いている息子の姿を見たことがありません。5年生にもなると、休日も野球の試合やら塾やらで、あっちが忙しくなりますからね」  ううむ……と逸彦は腕を組んでしまった。 「奥さん、3ヶ月でしたっけ」 「まぁね。彼女もまだ仕事してるけどね」 「ピアニストさんですよね。凄いなぁ」  確かにウチのカミさんは凄いよ、と言いかけ、逸彦は咄嗟に体をシートに沈めた。インカムで小声で指示を飛ばす。 「マル対、帰着。A班ウラを固めろ、B班行くぞ」  マンションのエントランスを潜り、対象者がオートロックの操作盤に鍵を差し込もうとしたその時に、逸彦と稲田がバッチを見せながら駆け寄った。 「山田大作さんですね」 「あ、はい……」 「婦女暴行及び強盗致傷の容疑で逮捕状が出ています」  どこにでもいそうな地味なスーツを着た中肉中背の男が、メガネを逸彦に投げつけてエントランスへと逃げようとしたが、すぐに取り押さえられ、背中に捩じ上げられた両手に手錠を嵌められた。 「学生寮ばかり狙いやがって。俺が被害女性の父親だったら蜂の巣にしてるぞ、おい」  山田大作49歳。女子大の学生寮、キャバクラの社員寮など、女性限定の物件に押し入っては女性を暴行し、有り金を盗んでいた。学生寮などの設備を管理する会社の社員で、合鍵を使っていたのだった。だが不運にも、その被害者の一人が、山田の暴行後に心臓発作を起こして亡くなっていたのである。 「犯人確保! A班、こっちに回って署に連行」  連行する逸彦の指示に、裏口にいた捜査員たちが正面口に走り寄ってきた。 「オヤッさん、こいつをみっちり絞り上げて」 「お任せください……覚悟しやがれ、この変態野郎」  やはり年頃の娘の父親でもある菅八郎が、両眉を釣り上げて逸彦から身柄を受け取り、パトカーの後部席に押し込んだ。  菅と他に数人、山田をがっちり押さえ込むようにして前後に乗り込み、後続のパトカーと共に特捜本部が置かれている世田谷署へと連行していった。 「稲田さん、鑑識さん、ヤサ洗うよ」  この手の犯人は大抵、戦利品と称して何某かの証拠品を持ち帰っているケースが多い。これまで立件された事件が全て山田の犯行と特定できる裏取捜査で擦り合わせをしなくてはならない。犯人逮捕からが、また一仕事なのである。  膨大な戦利品が山田の自宅に大切そうに保管されていた。下着、靴下、口紅やカチューシャなどという代物も出てきた。全てをDNA鑑定に回して被害者の者と一致するかどうかの結果を待ち、帳場となった所轄で冷え切った仕出し弁当を食し、取り調べで黙秘を続ける山田を軽く脅して歌わせ、管理官と翌朝の打ち合わせをして帰宅したのは、もう日付が変わる手前のことだった。     
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