14.闇

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14.闇

 警察病院から退院して間も無く、産科のかかりつけである慶應病院で稽留(けいりゅう)流産による掻爬(そうは)手術を受け、一泊二日の入院を終えて、漸く多岐絵は帰宅した。  退院時には何とか逸彦も間に合い、二人はボストンバッグを玄関に置いたまま、靴も脱がずに三和土に座り込み、並んで泣いた。  多岐絵を抱き寄せ、逸彦も子供のように声を上げて泣いた。  まだ妊娠初期であったから、手元には何も残らない。ほんの一時でも、幸せな夢を見せてくれた子の証は、殆ど何も書かれていない母子手帳だけなのだ。  そしてその時、逸彦の元にデパートから電話が入った。マタニティ・フェアで大量に買ったものが、ロッカーに入ったままで、しかも多岐絵と光樹が店内で襲われたことがわかり、客の安全を守れなかった詫びに、届けがてら伺いたいとの申し出であった。  何も考えられないまま、逸彦はただ、泣き声をこらえて生返事をするばかりであった。 「ご都合の良い日時は……」 「あの……俺、明日にでも伺います。どちらに伺えば……」  多岐絵には品物を見せたくない。だからといって、どう処理したら良いかもわからない。せめて多岐絵の目に触れないところで、収めたい。  電話を切った後、逸彦は多岐絵を抱えてリビングへと上がり、ソファに座らせた。  実家には知らせた。だが、多岐絵の母は、趣味のコーラスが休めないからすぐには行かれないのだと言う。こんな時に……そう思ったら、多岐絵の父から、既に車でこちらへ向かっているとの連絡が入った。 「お義父さん、もう着く頃かな」 「やぁね、わざわざ来たところで何にもできやしないのに」  できやしないのは、俺も一緒だと、逸彦は口ごもった。  多岐絵の父は冷静な人だった。大手商社のサラリーマンで、今は役員クラスの筈だ。かつては刑事も顔負けの忙しさで、義母には大分苦労をかけたらしく、今、義母が好き勝手しているのを許しているのは、贖罪の意味もあるのだという。  義父に、実家に連れて帰ると言われた時、逸彦もそれがいいと頷いたが、多岐絵は頑として首を縦に振らなかった。明日は仕事だからと、驚くようなセリフを口にして、逸彦と義父を仰け反らせた。  和室ではなく寝室で多岐絵を休ませ、義父にはデリバリーを取って、夕飯を済ませてもらうことにした。 「逸彦君」  自分は運転だからと、逸彦にだけ義父はビールを勧めた。 「お怒りはご尤もです。僕の仕事が、今回こんな形で多岐絵を苦しめることになろうとは……守れなかった俺の責任です」 「よしなさい、逸彦君。辛いのは君も同じだろう」  頭を下げた逸彦の肩に手を添え、義父が頭を上げさせた。 「まさかと思うが、刑事をやめようなどと、思ってはいないよな」 「……あ、えっと……」 「それは、娘は望まないと思う。君とは長い付き合いだと思っていたが、存外、あの子のことを知らないようだな」 「と、言いますと」 「あの子は強いよ。今は打ちのめされているが、あの子はちゃんと、再生する。それを信じて、今は黙って側にいてやってくれ。私達は何もしてやれない、娘も全く助けを求めては来ない。あの子は親を頼りにはしていないんだ。今までずっと、一人で戦ってきた子だからね……でも、今回ばかりは、再生するまでに時間がかかるだろう。唯一あの子が甘えるのは君だ。きっとサンドバッグのように当たったり、わがままを言うかもしれない。この通りだ、どんなことになっても、見捨てないでやってくれ」  お義父さん! と、逸彦は席を立って頭を下げる義父の側に回り込んだ。  こんな風に、娘の為に頭を下げる父になりたかった。息子の為に胸を痛める父になりたかった……少なくとも父である義父が、逸彦には羨ましかった。  
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