2.菩薩

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2.菩薩

   10月に警部としての新しい配属が決まり、12月に籍を入れ、多岐絵の家族とごく親しい人だけを招いてささやかな式を挙げた。多岐絵のお腹に新しい命が宿ったことに気が付いたのは、この市ヶ谷のマンションに越してきて落ち着き始めた年度明けの4月になってからだった。  終の住処とまではいかないが、警視庁に近く、何かあってもすぐ駆けつけられるところにいて欲しいとの、逸彦の熱望によるものであった。家賃が高いとごねるしっかり者の多岐絵を説き伏せるため、勝どきのマンションを売って中古のこの分譲マンションを買うことにしたのだ。18畳のリビングと襖で区切られた6畳の和室。夫婦の寝室用の8畳に、完全防音処理を施した玄関脇の8畳間。もう1つ6畳間があり、そこは逸彦の書斎になっているが、ゆくゆくは子供部屋にする予定であった。まぁ、この辺りとしては古い分格安で、外国人にも対応できるような広さが確保されている。駐車場も付いているし、駅にも大通りにも近く、買い物も便利だ。  多岐絵はこのリビングと続きの和室を潰して大リビングにしたかったらしいが、今となっては和室のままにしておいてよかった。子供が小さいうちは、やはり目が届くところに寝かしておける方が良いだろう。  ある休日、唐突にピアノの練習中にトイレに駆け込んだ多岐絵の背中を摩りながら、数限りなく妄想していた通りに目まぐるしく変わっていく人生の妙味を、逸彦は実感して嬉し泣きしたものだった。    カードキーで音を立てずに鍵を開け、逸彦はそっと足音を偲ばせるようにして中に入った。  つわりは然程酷くはなさそうだが、多岐絵は疲れやすさが目立つようになり、夜11時まで起きているのも辛くなっているようだった。いつでも横になれるようにと、最近は続きの和室に布団を敷いていることが多い。  手洗いうがいを完璧にし終えてから、入口近くの部屋でまずはスーツを全部脱いで除菌スプレーをかけまくり、その勢いでシャワーに駆け込む。リビングのドアは関所と一緒で、体の埃という埃を落としてからではないと通れないことになっていた。  頭の先から爪先まで綺麗になったところで、念願の関所を通ってリビングに入り、冷蔵庫からビールを取り出してソファに体を沈めた。 「うぉぁぁ……」  咆哮のような溜息をついて、プシュッとビールのプルタブを開けたところで、続きになっている和室の襖が開いた。 「お帰り」 「ごめん、起こしちゃったね」  慌ててビールをテーブルに置いて逸彦が駆け寄ると、寝間着姿の多岐絵が呆れたように腰に手を当てて溜息をついた。 「逸ちゃん、別にそんな気にしなくて大丈夫だから。私だって仕事してんのよ、大変さはちゃんとわかっているつもり。お腹は? 」 「……お弁当食べた。けど……」 「けど? 」 「多岐絵のご飯が食べたい」 「こんな時間に食べると太るわよ」 「いいよ別に。どうせ抱かれたい男第2位も他のやつに取られたし」  そうなのだ。結婚した途端、逸彦の抱かれたい男ランキングは第2位からラング外に陥落したのであった。悔しいことに、あのド腐れ縁の同期で四谷署のマル暴・霧生久紀は今期もブッチギリの第一位である。  そんなことをブツブツ頭の中で並べ立てている間に、多岐絵は実に美味しそうな親子丼と根深汁を並べてくれた。 「これこれ! いただきまーす!」  嬉しそうに頬張る逸彦を、多岐絵は愛おしそうに見つめていた。 「美味い、美味すぎる」 「大袈裟ねぇ。あ、そうそう、明後日さぁ、ちょっと新宿の伊勢丹に行ってくるね」 「伊勢丹? 」  もぐもぐしながら聞き返す逸彦の口周りをティッシュで拭ってやり、多岐絵は一枚のハガキを見せた。デパートからのDMである。 「明日から、マタニティ・フェアなんだって。ミッキーが明後日なら休みだから一緒に付き合ってくれるっていうの」 「光樹が? 」  光樹とは、霧生久紀の血の繋がらない弟であり、最愛の人でもある。逸彦と多岐絵とは、まぁ家族ぐるみの付き合いとでも言おうか。光樹と多岐絵は何かと一緒に出かけることも多かった。 「だって、一から揃えるようだもの。私も逸ちゃんも兄弟いないし、道具はレンタルするとしても、下着やマタニティ・ウェアはどうしても、ねぇ……」 「なんでも揃えてよ」 「高かったら他で揃えるわ」 「いいんだって。気に入ったのがあったら買って。初めての子だよ、多岐絵には買い物だって楽しんで欲しいし。本当は俺が一緒に選びたいくらいだよ」  すると、多岐絵は吹き出すようにして笑った。 「逸ちゃんが一緒だと破産するわ。値段見ないで選ぶんだもん」  そりゃそうだ、自分の愛する人に良い物を着て欲しいと思って何が悪い! と典型的な独身貴族の発想であることに気付くべくもなく、逸彦は口を尖らせた。 「給料上がったんだから、いいじゃん」 「そうよね、逸ちゃんのおかげよね。でも、子供にはお金がかかるの。二人ともここを買うのに貯金叩いてるし、これからは、ちゃんと貯めることも視野に入れようね」  はぁい、と子供のように不貞腐れた返答をする逸彦の頰を、多岐絵が楽しそうに突いた。毎日、こんなやりとりだ。夫婦というより姉弟か。  結婚前は3日以上共に過ごしたことがないことを少し不安に思っていた筈の逸彦は、こんな何てことないやりとりがどれほど幸せなのかを、今は毎日噛み締めている。特別なことなど必要ないのだ、身構えることも、考えすぎることもなく、ただアホなやり取りを楽しんで過ごしているだけで、夫婦の時間は埋まっていくものなのだ。 「まぁ、光樹が付き合ってくれるなら、安心だよ」  久紀とは高校の同級生であり、光樹のこともその頃から知っている。あんなアジアの美神と称えられる超絶美形ながら柳生新陰流の手練れでもあり、妊婦を預けるにはまたとない人物であった。 「何かあったらすぐ電話してよ。仕事抜けて迎えにも行くし」 「もぉ、逸ちゃんは超過保護なパパになりそうねぇ」  まだ膨らんでいない細いお腹を撫でながら、多岐絵が「ねぇ」と赤ちゃんに話しかけた。ああ、菩薩様ってこんな顔をしているのだろうなぁなどと、逸彦はビールをグラスから溢れさせながら見つめていたのだった。
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