7.姉妹

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7.姉妹

 できる限りの軽装で、多岐絵はデパートの前で光樹を待っていた。デパート自体、実に久しぶりである。一人暮らしをしていた頃は、稼ぎもギリギリで余裕はなく、舞台の衣装など、特別なものでもない限りデパートで何かを買い求めるなどということは滅多になかったのだ。 「お待たせ」 「うわぁ……」  待ち合わせ場所に現れた光樹は、半袖のブルーのワンピースに白いカーディガンという姿であった。春の日差しをライト代わりに、周囲の人間の視線を釘付けにしてモデル歩きで近付いてくる光樹は正に、アジアの美神であった。  同じようにグリーンのワンピースにリネンの白い長袖シャツを羽織る多岐絵と並ぶと、さながら姉妹のようである。 「母のお古。変かな」 「映えるわ、映えるぅ!! 眩しくて気絶しそうになったわよぉ」 「もぉ、大袈裟ぁ」  今日はマタニティ・フェアと言っても、主に多岐絵用の下着なども見なくてはならない。男の姿で同行したら買い物しにくいだろうと、わざわざ、ではないにしても、ワンピース姿で来てくれた光樹の気遣いが有難かった。しかもモデルオーラ満開の、とてつもない美しさで。  案の定、その姿で一緒に下着を選んでも、気恥ずかしさもなく、店員に妙な目で見られることもなく、リラックスして買い物を楽しむ事ができた。光樹自体は中身こそ男だが、実際に弟の和貴を乳飲児からその手で育て上げた経験は伊達ではなく、的確に必要なものをアドバイスしてくれたのであった。 「そのブラなら、授乳期も使えるよ。肩紐タイプじゃない方がタッキーの仕事にも邪魔にならないし、いいんじゃない」 「そうねぇ。胸の部分だけ開くってのも、絵的に笑えるけど」 「そうやって恥も外聞もかなぐり捨てて、強い母になっていくのよ。あ、授乳ケープはこっちの方が冷房除けにもなって便利だし可愛い。タッキーはお茶飲みながらケープして授乳するのは無理そうね」 「ああ、多分……幾ら何でも人と話しながらレストランの席でとか、ちょっと想像できない。泣いたら授乳室に逃げると思う」 「ところがね、そうもいかなくなる時があるのよ。泣き止まないとか授乳室が遠いとか混んでるとか、だからってトイレで赤ちゃんに吸わせるのも可哀想じゃん。布一枚隔てて乳含ませるって、母にしかできない肚の括り方だわね」  まるで何人も育てたかのような光樹の言い草が可笑しくて、多岐絵は売り場の中で声を上げて笑った。 「やだもう、10人ぐらい産んでそうなこと言ってぇ」 「……良かった。待ち合わせで待ってる時のタッキー、ちょっと元気なさそうだったから」 「そうだった? 」 「久紀もそうだけど、逸彦さんも、忙しいんでしょ……ご実家のお母さんでなくて、私で良かったの? 」 「母はね、自分の趣味で手一杯で、こっちの都合がいい時は向こうが忙しい、って具合。全く人に合わせる気がない人なの」  少し不安気に口を閉じて俯く多岐絵の手を取り、光樹がマタニティ・ウェアの売り場に引っ張って行った。 「臨月間際まで、仕事する気満々なんでしょ。ほら、メッチャお買い得になってるよ、この黒いスラックスなら伴奏の衣装にも使えるんじゃない? 」  光樹の優しさが、多岐絵には有難かった。  34にして妊娠し、出産する頃には35になっている。高齢出産の枠に入りつつある多岐絵に、医者は検診のたびに体重管理や体調管理など、年齢に絡めた指示を細かく言い募る。それがかえって不安を煽っているということを知ってか知らずか……逸彦は舞い上がるばかりで、本当のところ、出産の大変さや子育ての苦労を想像できているのかもわからない。自分がキャリアを整理しなくては成り立たないことも、本当はどう思っているのだろう。  考え始めるとキリがなく、仕事のない休日など、考え事ばかりになってしまって涙が溢れることもあった。実際、長く続けてきた合唱団の中には、練習時間が夜7時以降のために、若い後輩に譲らなくてはならないものも幾つかあった。ママ音楽家の中には、ママ業の経験は必ず表現の幅を広げるから、しっかり子育てをして復帰の時を待てと励ましてくれた人もいる。だが、練習時間も、あの痺れるような緊張感も、夜討ち朝駆けのような子育てと両立できるのか、演奏家として対価を頂ける技量をキープできるのか……こんなことを考えるなど、キャリアのために子供を堕した佐紀と同じではないか……。 「タッキー」  ワンピースを探す手が、いつの間にか止まってしまっていた。光樹はその手を両手で包み、ちょっと休もうと、三階にあるティールームに誘ってくれたのだった。 「女性にとって、ママになるって、想像以上に大変だよね」  光樹も多岐絵に付き合ってカフェインレスの紅茶を注文し、その上品な香りを手の中でカップを揺らすようにして楽しんでいた。 「生活がガラッと変わるし、何だかんだ言っても、ママの方が仕事をセーブしたり子育ての土台をこなさなくちゃならないでしょ。乳児健診、予防接種、地域のママ友との付き合いだの、保育園だの幼稚園だの……とくに逸彦さん、激務だし……。ウチの母なんて、産みっぱなし。和貴の事も、仕事になると眼中になくなっちゃって、もうね、自分の人生をこれっぽっちも調整しようだなんて思わなかった人でね、自分が気の向いた方へと突っ走ってた」 「それで、あなたが和貴くんを」 「だって、死んじゃうじゃない。こっちもまだ小学校に上がったばかりだってのに、宿題見てもらえるどころか、夜はシッターさんとバトンタッチで子育ての日々よ。今じゃ逮捕されるけどね。で、一度高熱出して倒れたら、高校の夏合宿に行ってた夏輝兄さんが夜行バスで帰ってきて、夏輝兄さんが着くまでの間は、まだ中学生だった久紀が当時暮らしていたおじいちゃんの家から駆けつけてくれて、そりゃもう必死で看病してくれたの。だから、久紀は俺の母が大っ嫌いだし、母に似ている俺の女装も、嫌いなの」  俺……そう言う時の光樹が素のままであるのを、多岐絵は知っている。素のままで、今、多岐絵に向き合ってくれているのだ。 「刑事の妻……覚悟はしていた筈なのに。逸ちゃんはああいう人だから、本気で閑職に回せって直談判しちゃって、驚いたけど……」 「刑事してる逸ちゃんが好き、だもんね」 「天職だと思う。だから、私が足枷になるような事はしたくない。でも……」 「子育てとなると、どうしたってタッキーが仕事を整理しなきゃならない。1人で子育てする覚悟もしなきゃ……タッキーだって、ピアノの仕事は天職でしょ。それも、凄く頑張って今の仕事に結びついてる」  2人は黙ってカップを持ち上げ、紅茶を啜った。冷めてしまったが、香りはまだ楽しめる。ポットのお茶を、光樹が多岐絵のカップに注いだ。 「有難う」 「俺は長く1つの事を極めた経験はないから、これ!って言えるものが無い」 「そんなこと」 「始めは確かに、自分が犠牲になるような気持ちになるかもだけど……子供は育つよ。少しずつ手が離れて、小学生になれば、自分の世界ができる。がっつり関われるのって、長い人生の、ほんの何年か、なんじゃ無い?」  ハッとしたように、多岐絵がカップをソーサーに戻した。 「大学行かない代わりに、俺は和貴を育てた、一生懸命。同時にあれこれ手を出して資格取りまくったのはさ、和貴が俺の背中を見た時、ただの飯炊きババアだと思われたくなかったから」 「飯炊きババアて……」 「あ、ジジイか。そうじゃなくてさ……タッキーは、仕事を少し減らしたとしても、立派なピアニストだよ。こんな誇らしいママ、いないけどなあ……辞める訳じゃないんだよ、ちょっとギアを落とすだけ。ベビーシッターはここにもいるし、仕事を続けるための必要な手は、逸ちゃんのお給料を使って手配しちゃえば良いの! 」 「そう、よね……そうよねー、アタシったら何ウジウジしてたんだか。ボーナスでも何でも使って、頼めば良いのよねー。どうせいたって大して役には立たないんだから」  光樹が思わず咳込んだ。 「ヒド……ヤル気満々でしょ、逸ちゃん」 「パパママ学級なんか、どうせ全スルーよ。健診だって全スルーでさ、気付いたら生まれてんじゃんっ、みたいな寸法だわさ」 「ハハハ! 有り得るだけに笑えなーい」 「思い切り笑ってるー」  吹っ切れたように、多岐絵が漸く明るい笑顔を見せた。強そうに見えても、人を1人産んで育てるという人生の大場面転換を前に、やはり足が竦む程の不安を抱えていたのだ。脳天気に我が世の春を謳歌する夫を冷めた目で見つめながら……。 「小学校に上がる頃には、まだ40ちょっとでしょ。歯を食いしばって、細くとも続けてさえいれば、幾らだってまたギア入れてキャリアを積めると思う。今までの蓄積は伊達じゃないんだから」  じっと、多岐絵は自分の指を見た。そうだ、土俵から降りるのは簡単なのだ。どんなに細々となろうが、その時が来るまで、続けてさえいれば、また違った景色が見えてくるのかもしれない……とまれ、何の話をしているのだ、自分の仕事がどうの、生活がどうのと……子供のことが抜け落ちている。 「私って、つくづく勝手よね。さっきから自分の仕事の心配ばかりしてる」 「当たり前だよ、人生かかってんだもん。これまで命削ってやってきたことが消えていく……だなんて思ったら、そりゃ不安になるよ。でもそれは、今、だから。産んだら180度違うこと言い出すよ、きっと。保育園なんて絶対預けなーい!! 自分で全部やるぅ!!とか、離乳食は全部手作りじゃなきゃ!!とか」 「そうかなぁ」 「そうよ。アタシ、和貴のトイレトレーニングも1人で全部やったけどさ、良かったって思う。あの頃はマジ死ぬかと思ったけど……俺にシモの始末させたガキが生意気言うんじゃねぇぞ! って、反抗期の時に思い切り言えたし」  再現するようにドスの効いた声で話す光樹を、隣の主婦の軍団が一斉に注視した。あらやだ、と口を手で塞いで微笑み返す光樹を、主婦軍団は奇異な目で見つめた。その様子がまた可笑しくて、多岐絵は涙を流しながら腹を抱えて笑った。 「笑い過ぎぃ」 「有難う、ミッキー。何だか、遠い親戚より近くの妹って感じ」 「ある時は妹、またある時は弟、しかしてその実体は? 」  ドラマの決め台詞のように太い声を出す光樹に、多岐絵がまた吹き出した。 「光樹は光樹よ。自慢の妹で、頼りになる弟」  深い信頼を目に宿して、二人が微笑み合った。 「ねえねえタッキー、ケーキ、もう一個食べない? 」 「ええ? まだ食べるの? 太るわよぉ、第一もうすぐお昼だし」 「お昼はお昼でがっつり食うわよ。別腹に決まってるじゃん」 「んん……まいっか!! 今日は奢りよ、光樹、お昼も豪勢に行くからね! 」  ダイエットは明日からぁ! を合言葉に、多岐絵は店員を呼んでケーキを2つ追加した。 「不安になったら、いつでも呼んで。お姉ちゃん」 「うん…光樹、今日は本当に有難う」  涙を堪えるように口を震わせながら、多岐絵は光樹に微笑んだ。    甘味を補充したところで、光樹が第一ラウンドの戦利品である買い物袋を一階の専用ロッカーに預けに行った。指とお腹に負担がかかるからと、光樹は決して荷物を多岐絵に持たせなかった。しかし次は、ベビー用品である。新たな戦利品に備え、一旦、手を空けることにしたのであった。  マタニティ・フェアの会場の半分は、ベビー用品の催事場になっていた。多岐絵はその入り口にあるベンチに腰を下ろし、光樹が戻るのを待っていた。  隣に、長い黒髪の若い女が座った。臨月というほどではないが、お腹は大きい。7ヶ月くらいか、などと想像を膨らませていると、女が突然状態を折り曲げるようにしてお腹を抱えた。 「どうしました、具合が悪いのですか? 」  背中をさすりながら女の様子を覗き込むと、多岐絵の脇腹に何かが当たった。それが何なのか、視線を落とした多岐絵は息を呑んだ。  銃口……勿論、多岐絵は実物など見たことがない。だが、女は垂れる髪の合間から視線を向けてニヤリと笑った。 「深海逸彦警部の奥さんだよね。ついでに言うなら、一緒にいたのは霧生久紀警部の弟。まさか女装してるとは思わなかったから、確信するのに時間かかっちゃったじゃん」  声は男のものである。ではこの腹も作り物だ。多岐絵は必死に視線を動かして警備員を探した。誰でもいい、この状況に気づいて欲しい。 「付き合って。そこに連れもいる筈だから」 「光樹? あの子をどうしたの」 「自分の心配しなよ、リアル妊婦だろ」  それでも、多岐絵は知らせる手段がないか、まだ諦めていなかった。光樹の腕っ節はよく知っているだけに、ハッタリとも限らないからである。光樹なら、きっと駆けつけてくれる……。  案の定、息を切らして階段を駆け上ってきた光樹が、多岐絵の姿を見るなり血相を変えて近寄ってきた。その右腕は怪我をしているのか、白いカーディガンが血に染まっている。 「止まって! 」  多岐絵が光樹を制止した。  光樹は光樹で、一階のタクシー乗り場付近にあるロッカーに荷物を預けた後、エレベーターが中々来ないことにヤキモキし、各階の踊り場にトイレが設置されている階段を軽快に上がっている時、3階と4階の間の男子トイレの陰からいきなりナイフで斬りかかられたのである。待ち伏せぶりを見ても、二人の後をずっと尾けて機会を狙っていたのは明白であった。  咄嗟の事に右腕を切られ、切られながらも襲いかかってきた大男の胸に回し蹴りを食らわせて、後頭部を掴んで大理石調の壁に何度も叩きつけた。多岐絵の身ばかりが心配で、完全に失神していることを確かめることなく、光樹は6階に駆け上がったのであった。  しかし既に、多岐絵は敵の手の中であった。 「タッキー……」 「光樹、怪我は大丈夫? 」 「こんなの、(かす)り傷だよ」  女に化けた男に銃口を突きつけられたまま、多岐絵は必死に平静を装った。周りには同様の妊婦や赤ん坊連れが多い。こんなところで発砲でもされたら、必ず被害者が出る。多岐絵は大袈裟に辺りを睥睨するような目の動きをして見せ、光樹に動くなと伝えた。 「へぇん、あの嶺二からよく逃げられたね」 「その人と代われ、俺が人質になる」  光樹も多岐絵の意図を受け取り、周りに気付かれぬよう、小声でそう男に伝えるが、男は笑うだけであった。 「てめぇ()、一緒に行くんだよ」  光樹の後ろに背の高いチンピラ風の男が立った。頭から血を流しているところを見ると、光樹にやられたのか。 「このオカマ野郎、後で存分にいたぶってやるからな」  光樹の背後に立ったチンピラの、あちこち殴られたような顔を見て、妊婦に扮した男が多岐絵に銃口を貼り付けたまま薄っぺらい金属的な声で笑った。 「だっせぇな嶺二、こんなおカマにやられたのかよ」 「うるせぇ……こいつ強ぇぞ。撃っちまえば簡単だったのによ」 「撃ったら人質の意味ねーじゃん、バカか」  光樹の首筋にも、男が持つ小型拳銃の銃口が張り付いた。光樹が肘を打ち込もうと腕を体の前でそっと折り曲げた時、多岐絵が首を振った。 「光樹、ダメよ」  光樹のすぐ後ろを、何も気付かぬ様子の妊婦がベビーカーを押して通り過ぎていく。光樹は多岐絵に従い、腕をだらりと下ろした。 「タッキー……ごめん」  守れなかった悔しさで、光樹の顔が歪む。多岐絵は凛とした表情で光樹に頷いて見せた。 「で、どこに行けばいいの、早く連れて行きなさい」  とにかく早くここを離れたい一心で、多岐絵は犯人達を促した。 「流石の度胸だねぇ……立てよ。おっと、スマホは預かるよ」  バッグを取り上げられた多岐絵と光樹は、催事場の背後にある従業員通路を歩かされ、搬入用のエレベーターに乗せられた。大盛況のセール会場に人員が割かれているのか、バックヤードで誰1人すれ違いことはなかった。けが人が出ないのは何よりだが、唯1人でもいい、この異常に気付いて欲しかった。  やがて地下の搬入エリアに到着すると、ベビー用品のブランド名が書かれた白いワンボックス車に二人は押し込まれた。中には既に一人運転席に座っており、四人を吸い込むなり車は急発車した。  二人は目隠しをされ、後ろ手に拘束バンドで動きを封じられたのだった。  
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