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月曜日、ペアリングと俺
帰りの車の中、恵さんはしきりに指輪をした自分の左手を見つめている。
赤信号で停車して、隣で俺が見ているのも気づかないくらい。
うっとり、というよりは、不思議な物を見る目で。信じられない、と思っているのが丸わかりだった。
左手を、目の前にかざしてみたり、膝の上に置いてみたり、表と裏をひらひらと返してみたり。
運転中の視界の端で、何やらしているのが可愛くてたまらない。
結婚を前提にと彼女に伝えたのが1か月程前。それからいつ買おうかとずっと考えていた指輪のこと。
本当は婚約指輪を買いたかったけど。
あれは女性だけがつけるものなんだよな…
もちろん、指輪を贈るのは大歓迎。自分との結婚を約束した証なのだから、是非とも身につけてほしい。
が、ペアリングの魅力はペアデザインの指輪を一緒に身につけられるということ。
いつでもお互いのことを感じられるという、販売員の説明には彼女も心を動かされたようだった。
単純に、男避けにもなるし。
ジロジロ見られるのはもう仕方ないとしても、指輪をしている女性にアプローチしようとする男はそういないだろう。
ついでに、俺の方もバレンタイン前で増えてきた女性客のチョコレートを断る理由にもなる。
見て察してくれたら、気まずく断ることも減るかもしれない。
ふたりでいろいろ試してみて、ごくシンプルなデザインのものを選んだ。サイズもあるというのでそのまま購入してお互いの左薬指にはめて、今に至る。
「真咲くん、気づくかな?」
「え、どうかなぁ…」
気づくかも?とつぶやきながら、こっちを向く気配がして。
「おれもほしいって言いそう」
笑いながらそう言った。
「あー…言いそう」
「大事な人ができたらって教えようかな」
「それがいいね」
大事な人。
恵さんにとっての俺がそうであるなら、こんなに幸せなことはない。
家に着いたのは2時過ぎ。
お迎えまではまだ時間がある。
ひと息入れようという話になって、一緒にコーヒーを淹れた。
「あ、しまった…」
「どうしたの?」
思い出して声を上げた俺に、恵さんが尋ねる。
「カップ、見てこようと思ったのに忘れた」
「カップ?」
「うん、恵さんと真咲くん用の」
指輪を買ったらすっかり満足してしまって、今まで思い出さなかった。
俺も相当浮かれてるな…
「でも、土曜までだし」
「うん、でもまた来るでしょ?」
いつまでも客用のを使うのはよそよそしい。
「恵さんだって、俺用の用意してくれたじゃん」
「あ、そうだね…」
土曜までと彼女は言うけど、それまでに不審者が捕まるかどうかもわからない。俺としては、少しでも危険があるなら帰らずにここにいてほしかった。
その話をしてみようかと、改めて口を開く。
「あのさ…」
「うん?」
客用のカップを口に当てたまま、こっちを見る彼女。その左手の、薬指に光る指輪に目を奪われる。
「修くん、なに?」
黙っている俺を見て、彼女が首を傾げる。
「恵さんさ、今の家って持ち家?」
気づけば、そんなことを訊いていた。
「ううん、借家なの」
「じゃぁ、いっそ引っ越してこない?」
「……え」
「一緒に、暮らさない?」
この家で、と口にしたら。
心臓がドクンと跳ねた。
指輪を買って、その後こんな誘いをかけて。
これってほとんどプロポーズか…?
そう思ったら、顔がカッと熱くなった。
そこまで考えていたわけじゃない。でも、一緒に暮らしたいとはずっと思ってた。
「な、なんで?」
「なんでって…」
この反応はどっちだ?
嫌なのか、嫌じゃないのか。
真っ赤になってるから、嫌ではなさそう…?
「不審者がいつ捕まるかわからないし、捕まったとしても、二人暮らしは不用心かなって…」
「そう…かなぁ…」
視線を泳がせながら、恵さんが口ごもる。
「そうだよ。俺も父さんもけっこう前から心配してたんだ。このあたりでも変質者とか空き巣とか、耳にすることがあるし」
「う、うん…」
「だから、せめて白田さんからいい知らせがくるまではうちにいない?土曜日の誕生日会もうちでやったらいいよ。そしたら俺も手伝いやすいし」
言っているうちに、何としても引き留めたい気持ちが大きくなっていく。
「あ、父さんに遠慮はなしだよ。見たでしょ、あの喜びよう、真咲くんとあれもこれもしたいってはしゃいでるんだよ」
彼女と付き合う前から、嫁に来ないのかと訊いてきたくらいだ。一緒に暮らすとなったら絶対に喜ぶに決まってる。
「そうなの…?」
そう訊いてくるということは、やっぱり父の負担になるのではないかと考えていたんだろう。
「うん。全然、負担とかはないからね。むしろ賑やかになって嬉しいって言ってるくらいで。恵さんのこともすごく気に入ってるし、真咲くんも懐いてくれて嬉しいんだよ」
だから、と畳み掛ける。
「一緒に暮らすのはゆっくり考えてくれればいいから、とりあえず不審者逮捕まで。ね?」
「うん…」
言い包められる形だけど、彼女はうなづいてくれた。ほっとしてカップを手に取ろうとして、気が緩んだのか指が滑った。
ガチャッと音をたてて倒れたカップから、まだ熱いコーヒーが流れ出す。
「あつっ…」
「修くん!」
コーヒーのかかった右手を掴まれて、
「早く冷やして!」
速攻で流水をかけられた。
勢いよく流れ出る水は冷たく、コーヒーの熱さはすぐに薄れていく。
「大丈夫!?痛くない?」
青い顔の恵さんが言う。
「うん、平気そう」
痛みはもうなくなっているのでそう答えた。
「良かった…でももう少し冷やしてね」
「うん…あっ!」
「な、なに!?」
「恵さん、服!」
「えっ…、あ…」
シンク横のカウンターから身を乗り出すようにしていた恵さんの、シャツのお腹あたりが零れたコーヒーを吸い込んでしまっている。
淡い水色のそれは見事にコーヒー色に染まっていた。
「あぁ…これは」
着替えて洗えばいいんだから、と言いながら俺の手を離す彼女。
一歩下がって見たら、コーヒーはシャツどころかスカートにまで染みていた。
「ごめん!」
「大丈夫だよ、私も気づかなかったし。着替えるから気にしないで」
「染みになるかな?」
「すぐに洗えば大丈夫。それよりも修くんはもう少し冷やしてね」
そう言いながら倒れたカップをシンクへ下ろし、手早く台拭きでコーヒーを拭き取る。
無駄のない、良く慣れた手付き。
前から思っていたけど、家庭的だよな…
綺麗で優しくて料理上手な彼女。
昨夜の冬馬の言葉がよみがえる。
これを見ていて、あの冬馬が彼女がほしいと思ったのもうなづける。
だから好きなのかと聞かれたらそれは違うけど。好きになったらこういう人だった。家事も料理もできなかったとしても、きっと好きになっていた。
「ちょっと濯いじゃうね」
流水の下で台拭きを揉み洗いして絞る。それだけでコーヒーはほとんど抜けてしまった。
「手、どう?もう平気そう?」
「あぁ、うん…」
「良かった…」
安心したように微笑むと、「着替えてくるね」と2階へ上がろうとする。
背中を向けられたら、反射的に手を伸ばしていた。
「待って」
左手を掴んで、引き寄せる。
「っ…、修くん…?」
華奢な体を腕に中に閉じ込めたら、少しだけ安心できた。
何故なのか、彼女に背中を向けられると不安がよぎる。捕まえておかないとどこかへ行ってしまいそうな、そんな不安が。
家に帰したくないのも、そんな気持ちの延長なのかもしれない。
いや、ただの独占欲かも?
どっちにしろ、こんなふうに感じるのは初めてに違いなく、彼女の何がそうさせるのかはわからないにしても、許される限り一緒にいたいし触れていたい。
離れたくない。
それははっきりしていた。
「行かないで」
「え…?」
「一緒にいよ?」
「あ…で、でも、服、が…」
「…!そっか…」
早く洗わないと染みになってしまう。
「すぐ着替えてくるから…」
そう言って抜け出そうとされたら、また反射で抱きしめてしまう俺の腕。
「修くん?」
「やだ」
「え?」
「俺が洗ってあげる」
「……え!?」
「こっち来て」
戸惑う彼女の腰をがっちり抱いて廊下の奥へ向かう。
「ちょ、修くん…!?」
脱衣室に連れこまれてシャツのボタンに手を掛けられて、当然だけど恵さんは焦りだした。
「あの、何してるの…?」
「ボタン外してる」
「そうだけど、そういうことじゃ…」
自慢じゃないけど俺は手先が器用で、女性用衣類の小さなボタンなんか秒で外せる。
1番下のボタンまで外されたら、
「ま、待って!」
恵さんが、かき合わせるようにシャツを閉じてしまった。
「何してるの、修くん!」
「脱がせてる。早く洗わないと」
ほら、と手を伸ばしたら一歩引かれた。
「自分でできますっ…」
「でも俺がコーヒーを零したせいでしょ?」
俺が一歩詰め寄る。
恵さんが一歩下がる。
「でも大丈夫だから、私、自分でできるよ…」
「俺がしたいの」
「な、なんで…?」
また一歩近づくと、彼女も下がる。
縮まらない空間に苛つく。
「離れたくないから」
「離れたく…?え、離れてないよ?」
ここにいるよ、とつぶやく彼女に手を伸ばして、真っ赤になっている顔に添えた。
ぴくっと反応するから、こっちまで震えそうになる。
「手を貸して」
「手?」
「うん、ここにあてて」
白い右手を左胸に導くと、「あ、すごい…」と彼女が目を見張るほどの鼓動が伝わったようだ。
「ドキドキしてるね…」
「うん…恵さん、は?」
「私もさっきからすごいよ…」
「触ってもいい?」
「うん…」
頬にあてた手を心臓の上に移したら、同じく脈打つ感覚が伝わってきた。
「修くんが近くにくるといつもこうなる…」
ぽそりとつぶやく彼女。
「俺?」
「そうだよ?他にいないよ…」
俺だって、他になんかいない。
恵さんしかいない。
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