知らない男性と私

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知らない男性と私

雨はまったく止む気配はなかった。 予報通り、1日じゅう雨らしい。 広げた資料に目を落とし、データ入力を続けようとした途端、ズキッとこめかみが痛んだ。 「っ…」 こういう日は頭痛がすることが多い。 だから雨予報が出ると気が重い。 それさえなければ、雨自体は嫌いではないのに… おまけに抽斗からピルケースを出したら、肝心の鎮痛剤がきれていた。 「………」 しばらく考えたけれど、頭痛は治まりそうもなく、かと言ってこのまま仕事を続けるのはしんどい。 時計を見るとまだ10時前だけれど、この際買い物に出てしまおうと決めた。 ドラッグストアで薬も買ってこよう。 どうせ午後には出るつもりでいたのだから、先に済ませてゆっくり仕事するのも手だ。 部屋着から着替えて外に出ると、小雨の中を駐車スペースまで走った。 「あっ」 小さな声が聞こえた気がして、反射的に振り返ったら、背の高い男性と目が合った。 見覚えのない人だ。 私じゃないのかも…と思って、そばに誰かいないか目を走らせたけれど、近くに他のお客さんはいない。男性に目を戻すと、やっぱりこっちを見ていた。 とりあえず、キャベツに伸ばした手を引っ込めて姿勢を正す。 天気のせいか、店内はがらんとしていて、ぎゅうぎゅうに並んだ野菜たちが肩透かしを食らっているようだ。 男性は少し慌てた様子で、 「あ、すいません」 と言った。 声が若い。前髪が長くてよくは見えないけれど、顔も若そうだ。 20代…かな。 でもやっぱり見覚えがない人だ。あ、もしかして? 「このキャベツですか?」 さっき手に取ろうとしていたキャベツを指さす。目をつけたキャベツが私に取られそうだったから、つい声が出ちゃったとか? 「えっ」 男性はまばたきをして、キャベツと私を交互に見た。そして、「や、違います…」と言った。 ちょっと笑ってる口元を見た瞬間、私の頬がカッと熱くなってしまう。 「そ、う、ですか。…ごめんなさい」 またやってしまった。 見当外れなことを言ったりやったりして、人の気分を害してしまうのは、私の悪い癖だった。 直したいとは思うけれど、どうやったら直るのかわからないままこの年まできてしまったのだ。 「し、失礼します」 頭を下げた時、一粒だけ涙が落ちたのがわかった。 顔から火が出そうなほど熱い。 私は逃げるようにレジへ向かった。 まとめ買いする予定だったのに、買ったのはお肉とお魚だけ。 車に戻ってシートにもたれながら、ぐったりしてしまう。 どうして私はこうなんだろう… 何も泣くことないじゃない? きっと大げさだって思われた… 重いため息を吐き出す。 涙は止まって、頭の中もほっぺたもだいぶ冷えていた。 それにしても、以前はここまでじゃなかったのに… 酷くなっている気がする。 会社を辞めてフリーで仕事をするようになってから、ほとんど人付き合いをしないからだろうか。 いわゆる、空気が読めないタイプ。 なのに、自分に向けられる冷やかしや哀れみには敏感に反応してしまう。 我ながら、面倒くさい人間だと思う。 「直らないな…」 コン、コン つぶやくのと同時に、助手席側の窓がノックされた。 「え…」 さっきの男性が窓ガラス越しに覗き込んでいる。 心臓がぎゅうっと縮んだ気がした。 なんで? ついてきた? なんなのこの人… 硬直している私を見て、男性は手に持った何かを見せた。もう一方の手で、それと私を交互に指さす。 男性が持っていたのは、見覚えのあるハンカチだった。 「あ、私の…」 バッグに入れておいたつもりで落としていたらしい。 急いで窓を開けると、 「これ、落としましたよね」 とハンカチが差し出された。 「はい。ありがとうございます」 「いいえ。あの、さっきはこちらの方が失礼してしまって、申し訳ありませんでした」 「そんな…」 申し訳ないのは絶対に私の方だ。 勘違いでおかしなことを言って逃げ出し、落とし物を届けてくれた人を変質者と間違えそうになるなんて。 また頬に血が上ってくる気配がして、慌てて下を向く。手にしたハンカチで口元を押さえた。少しでも余計なことを言わないようにと、いつからか自然に習慣になってしまったのだ。 「私の方こそ変なこと言ってごめんなさい」 「そんなことないです。でも、あの、」 「?」 「キャベツ、買わなくて良かったですか?」 「あ…」 生姜焼きに添えるキャベツの千切りは、私のレシピだと定番だけれど。 今からまた買いに行くのも億劫だった。 「大丈夫です。また次回にします」 「あの、じゃぁ良かったら、これ」 にゅっと目の前にキャベツが出てきて、思わずのけぞってしまう。 「い、いただけません。そんな…悪いですから」 「悪いのは俺です。その…泣かせてしまって、すみませんでした」 あぁ、やっぱり見られてた。 ーあれくらいで泣くなんて。 ー下手なこと言えないよね。 昔の陰口が耳の中に蘇る。仲良しだと思っていた子が、私のいないところではそんなふうに話していた。 「いいえ」 「え?」 ハンカチを握りしめて、キャベツ越しに男性の顔を見る。 「あれくらいで泣くなんて、私がおかしいんです。本当にごめんなさい」 前髪の奥で、目が見開かれた。そして、 「あなたはおかしくないです。俺が失礼だったから…というか、俺が声を出しちゃったから」 と、男性は焦ったように弁解を始めた。 「気持ち悪いかもしれないんですけど、俺あなたを知ってます。」
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