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Ⅰ.くま
何気ない1日の始まりだった。
高校に入学してから早2ヶ月が経過し、初々しかった私もどこか熟れた気がする。そういえば最近は、排水口の溝ですら桜を見かけることもなくなった。それどころか曇天の季節が目前に迫っている。
仕事支度の合間にママが焼いてくれたトーストが、まるでフリスビーでも放るかのような勢いで、私の眼前の皿に乗っかった。
「セイナ、あんた寝癖すんごいからね!」
ママはそう吐き捨てながら、トーストの上に目玉焼きを乗っけてくれた。皿の前にパンがやってきてから体感にして2秒。無駄のない動きだ。
「さっさと食べて準備しなよ! あと戸締まりね! じゃ!」
「いってらっしゃーい」
玄関の戸に私の言葉は滑り込めただろうか。まあこういうのは実際に相手に聞こえたかどうかより様式美みたいなものだし、別にいいんだけれど。
私は黄身を中心に残しながらトーストをリスのように齧っていく。その傍ら、目だけをテレビに向けた。人気アイドルが朝のニュースのワンコーナーを演じていた。
『久間ミトの、お天気ミトく?』
やかましいわ。
お前のせいで私がどんな苦労をしていると思っているのか。
私の名前は久間セイナ。
そう、この国民的アイドルである久間ミトと、字面だけは同じ名字である。
そこまで一般的でないこの漢字2つの並びは、いまや、読めて当然とまでなりつつある。それも久間として。
この容姿端麗、歌唱力抜群、ダンスキレキレ、愛嬌最高という「生まれながらのアイドル」と言っても過言ではない「久間ミト」は、テレビやネットで見かけない日がない、それ程までの地位と名声を手に入れている。
付いた二つ名は『国民の妹』。やかましいわ。
その妹のせいで、私は名を呼ばれる場面で必ず訂正をしなくてはならない羽目になっている。
「……くまです。きゅうまじゃなくて、くまです」
これはうちの家族、いや久間一族にとっての共通した懸案事項と言っていいだろう。
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