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三時間前まで海は栞の部屋にいた。会うのは三週間ぶりで、本来ならいつも通りの一日になるはずだった。
なのに、事故にでも遭遇したかのように唐突に海と別れた。
だって、許せなかったのだ。
栞自身はどう思われても構わない。優柔不断だと思われても、コミュ障だと思われてもいい。でも、世界で一番愛している作品を貶されるのだけは許容できなかった。
「それさあ、いつまで好きなの?」
栞の部屋の本棚に並べられたカラフルな背表紙たちを指差して、海が言った。
「子どもが読む本でしょ、それ」
声色の中に潜む見下すような視線に心臓を刺されたような衝撃を感じた。
「出てって」
二十四年の人生の中で一度も生じたことがない激情が栞を動かした。
突き飛ばすように海を部屋から押し出す。喉の奥が沸騰したくらい熱かった。
「は?」
「今すぐこの部屋から出てって!」
赤く強い怒りが栞を突き動かしていた。
はじめて、人を、怒鳴りつけた。
呆けた顔の海はされるがままに玄関まで後退していく。
「え? は?」
まだ彼が混乱している内に、海と彼のスニーカーを外に投げ出した。
「別れて。私、あなたとはもう付き合えない。もう二度と会いたくない。……さよなら」
矢継ぎ早に別れを告げ、勢いよく扉を閉める。
扉を叩く音や栞を呼ぶ声を無視して逃げるように玄関から立ち去ると、リビングのソファで頭を抱え音を遮断する。
しばらくそうやってソファで体育座りをしていると、ふつりと音が止んだ。
けれど消化できない気持ちが重力となって、倒れたまま動き出せない。
骨がすべてとろけたようにソファに顔をうずめていると、起きろと栞を促すように軽い電子音が何度も鳴った。
うつぶせになったまま手を伸ばしLINEをひらくと、海から七件もメッセージが届いている。
『出てくる様子ないから帰った』
『俺、何かした?』
『よく分かんないけど何かしたならごめん』
『あのさ、』
『本気?』
『まじでよく分かんないんだけど』
『返事くれ』
――自分の感情に、名前を付けられない。
ただ、どうしようもない衝動が、再び栞を突き動かした。
何かが破裂したような音がした。
手に持っていたはずのスマートフォンが、壁に叩きつけられている。
説明のできない、何かが、耐えようもないほどに悲しく、苦しく、虚しかった。
自分の吐き出す息が熱い。目からこぼれていく涙が熱い。爪がくいこむほどに握りしめられた左手が熱い。けれど涙に付随するように出てきた鼻水という生理現象によって沸騰した感情は急速に冷めていった。
後先考えない衝動的な行動に走った自分を嘲るように出た乾いた笑いが部屋を揺らす。
壁に投げつけたスマートフォンを自分で拾う。ぶつかり方が悪かったのか保護フィルムの下の画面まで割れてしまっていた。
保護フィルムの上から画面に触れるとざりざりと砕けた破片の感触がする。
栞は、ひどく短絡的な行動をした。
けれど思うのだ。
この世で一番大切なものを踏みにじられても笑うくらいなら死んだ方がましだ、と。
ぺたりと、本棚の前に座る。
色とりどりの背表紙に指でそっと触れる。タイトルをなぞるように指をすべらせると、つるりとした感触が心地良い。
背表紙の色は作者ごとに変えられているため、遠目からでもどの本にどんな物語が秘められているか栞には分かる。
栞の本棚を埋めるのは女の子向けのライトノベル――少女小説とも呼ばれる本たちだ。
栞が中高生の頃に買ったそれらは、丁寧に扱っていても角がよれてしまっていたり、背表紙が少し色褪せたりしていた。
ライトノベルは、いつか通り過ぎ忘れられるコンテンツらしい。昔どこかでそんな文章を見かけた。
それは事実だろうとも思う。どれだけ抵抗したくても子どもはいつか大人になるし、夢はいつか現実と入れ替わる。
栞だって、本当はもう通り過ぎているのかもしれない。
しかしすぐ、本当に? と、過去の自分が問いを投げかけてくる。
大人に、社会人になった自分は、通り過ぎ忘れてしまったのかと問いかけてみれば、答えはすぐに出る。
忘れられるわけがない。いつか忘れられる物語だなんて言わないでほしいと今でも思う。
ここに並べた物語たちから栞は沢山のものを貰ったのだ。
手を伸ばして、薄紫色の綺麗な背表紙を持つ一冊を本棚から引き出す。
表紙には、印象的な鮮やかな赤い髪をなびかせたはつらつとした表情の女の子と、理知的な顔立ちをした黒髪の女の子が描かれている。
彼女たちを目にしたら、止まったはずの涙がまたこみあげてきた。涙が表紙に落ちないように鼻をすすりながら上を向く。
一番。
栞の、一番、大切なもの。
肯定されたい。
あさましいだろうか、承認欲求のような、執着のような、何かから許されたいような、そんな気持ちは。
肯定されたい。分かち合いたい。
あの頃、栞とともに夢中になって小説を読んでいた友人は、母になり、今はもう小説を必要としなくなった。
本棚の前に座ったまま、スマートフォンを操作する。
Twitterを開き手始めにタイトルで検索してみると、小説の登場人物の台詞を定期的につぶやくbotがひっかかった。スクロールしてもスクロールしてもそればかりで、欲しい情報はちっとも出てこない。
登場人物の名前を並べてみても、検索結果はbotでうまる。
不毛な行為に、一体自分は何をやっているんだろうと思ってもどんどんムキになっていった。だって駄々をこねるように、こう思う。
今だって、あの頃大好きだった物語を抱えたままに生きている人はいるはずだ。時間が過ぎたからもう誰も心の中の椅子に彼女たちを座らせていないなんて、あっていいわけがない。
胸で燃え上がった想いと、意味の分からない使命感に突き動かされて検索を続けた。
単語を変えて何度も繰り返し、目にしている文字が頭の中でゲシュタルト崩壊しそうになって。充電もなくなりかけた時。
やっと、ひとつのつぶやきが目に止まった。
『ルビーにとってのリオみたいな友達がほしい』
日付を確認すると、五ヶ月ほど前のつぶやきだった。
比較的最近のつぶやきなのに見逃していたようだ。最初にルビーとリオで検索した時は気がつかなかった。
アイコンをタップしてホームに飛ぶ。
プロフィールには『趣味用』としか書かれていない。過去のつぶやきを見ていくと学生のようだったが、それ以外には性別や年齢を予想できそうなことは書かれていなかった。
漫然とつぶやきを見ていると急に疑問がふっとわいた。
見つけて、それでどうしたいのだ。
肯定されたいだけだったら、過去の感想だっていいはずだった。
そう、栞の友達だってそうだ。
今どう思っているかは分からないけれど、あの頃栞と同じサイズの好きを彼女は持っていた。それは絶対に嘘じゃない。
彼女はもう小説を必要としていないだろうなんて、連絡を取り合ってもいないくせにどうしてそんな卑屈な気持ちを彼女に抱いたのだろう。勝手に彼女を決めつけてしまったのだろう。今の彼女を知りもしないくせに――。
もう、いい。
冷静になった思考が、スマートフォンを操作する手を止めさせた。
理性的な自分が訴えてくる。不毛なことはさっさと止めて、日常に戻るべきだ。否定されたから、否定し返すために理論武装したいだけだ。しょうもない対抗意識だ。反射的な行動だ。
いくらでも自分を説得する言葉が出てくる。
それなのにすがりつくような気持ちが消えなかった。
過去ではなく、今。この想いを肯定してくれる人、共有してくれる人が欲しい。
年上でも年下でもいい、男でも女でもいい、十年前に読んでいた人でも最近読んだばかりの人でも構わない。本当に自分が求めていたものが鮮明になっていく。
栞は、今、同じくらいの熱量で気持ちを共有してくれる人と話がしたい。
ああ、そうか。
本当はずっとそうだった。ずっとずっとそうだったのだ。
狭まっていた視界が広がると、導かれるようにその文字は目に飛び込んで来た。
『誰かとホノマホの話がしたい』
滲む視界を袖でぬぐって、栞は文字を書き込むためにスマートフォンを操作した。
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