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自動ドアが開くと、入店をつげる明るい音が鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。申し訳ございませんが、お名前を書いてお待ちください」
片付けた食器をトレイにのせた女性店員が、通りすがりに声をかけていく。
ちょうどお昼になった休日のファミリーレストランはとても混雑していた。
ぼうっと立ちつくしていると、先程の女性店員が、再び栞の前を通りすぎようとした。
「あの! すみません、えっと、待ち合わせ、なんですけど、タグチ……で」
自分から声をかけないといつまでも待ち続けるだけになってしまう。忙しく動き回る店員の足を止めさせるのは申し訳ないが仕方ない。
「お待ち合わせですか、失礼いたしました。ご案内いたしますね」
案内された四人がけのテーブル席では、すでに二人の女性が和やかに会話を交わしていた。
一人は少しふくよかな体格をした四十代くらいのほがらかな雰囲気の女性。もう一人は生真面目そうな空気感をまとう二十代であろう女性だ。
「タグチさん……えっと『たまこ』さん? ……ですか?」
栞はまず四十代に見える女性の方に話しかけた。
肩につくくらいの茶髪を揺らしながら立ち上がった女性は、ぱっと花開くような笑顔を浮かべる。
「そうですはじめまして、たまこです。……えっと」
「あ、あの私『塩』です」
「塩さん! こんにちは」
周囲まで明るくなりそうな挨拶をしてから、たまこは向かいの席を手で指した。
「はじめまして塩さん、『朔』です」
朔は、おしゃれな丸眼鏡をかけて黒髪をハーフアップにまとめた女性だった。想像していた通りの見た目で少し感動する。
「朔さん! はじめまして」
彼女は前に大学生と言っていた。ならば自分よりも年下なのだが、落ち着いた雰囲気が漂っていて年下には見えない。
「どうぞ、座ってください」
「失礼します」
薄手のベージュのジャケットを脱いで席に座る。例年通り五月の陽気は夏のように暑く、店内はもう冷房がきいている。
「あとは『アカ』さんだけですか?」
「そうですね」
今日は四人で会う予定だった。約束の時間まではあと十分ある。
「とくに遅刻の連絡はもらってないのでアカさんもそろそろ着くと思いますよ」
たまこの言う通りすぐに彼女はやって来た。
「あの、タグチさん……ですか?」
当たり障りない会話の隙間に、ハスキーだが軽やかな高音がすべりこむ。
時刻はまだ十二時五十六分。誰も遅刻せずに全員集合だ。
たまこや朔が自分にしてくれたように栞も笑顔をつくった。だが、彼女の姿を目にうつした途端に持ち上げた口角の端がひきつる。
最後の一人――ショートカットにつり目の彼女は、どう年齢を高く見積もっても未成年の少女にしか見えなかった。
「アカ、さん?」
ぱちぱちとたまこが目を瞬かせる。
「そうです! 良かったあってたー! 間違ってたらどうしようかと思いました。……って、うわ! もしかして私、最後ですか? ごめんなさい待たせちゃって」
緊張しているのか、必要以上にテンションの高い喋り声が響いた。
「あの……?」
「とりあえず話は座ってからにしましょうか」
いち早く我に返った朔が促す。
「えっと、皆さんどうしたんですか? まさか私、集合時間を間違えちゃいましたか?」
メッセージを確認しようとしたアカを朔が制した。
「間違えてないですよ。約束は十三時であってます」
「良かった! てっきりずっとお待たせしちゃったのかと思いました」
アカはほっと緊張をといたが、栞たちから向けられる視線が困惑を帯びたものであることに気づくと不安そうな表情になった。
さぐり合う空気が数秒漂い、たまこが口火をきる。
「アカさん、ぶしつけで悪いんだけどあなたの年齢を聞いてもいい?」
「……十四歳です。中学、二年生」
その返答は、これから自分が叱られる予想を脳裏に浮かべた子どもみたいだった。
「親御さんに、今日のことは話した?」
「話してないです。……え、親の許可って必要なんですか?」
心の底から驚いた様子だった。きっと報告するという発想自体なかったのだろう。
「……私たちは、言ってしまえばどこの誰かも分からない大人なわけだから。親御さんはどうしても心配すると思うんですよね」
また朔が栞たちよりも先んじて、アカに言葉を投げかける。
「えー! でも皆さん知らない人ではないじゃないですか。もう半年もつながってるし」
「でも会うのは初めてでしょう?」
「だけど教室で毎日会うクラスメイトより知ってること多いですよ」
教室、も。クラスメイト、も久しぶりに聞いた。
彼女のその言葉には血が通っていて、きっと栞が教室と口に出したところで彼女が舌にのせるようには聞こえないだろう。
「そうですね。でも、アカさんが中学生だってことは今日こうやって会うまで私は気づけませんでした。そんな風に、例えば塩さんやたまこさん、私の内の誰かが実は男だった可能性があったかもしれない。もしかしたらアカさんをだましてやろうとか傷つけてやろうとか考えていたかもしれない」
「いや半年も時間と労力かけてお金持ちでもなんでもない一般家庭の私のことだましたりする人いないですって!」
大仰に手と首を振ってアカは否定した。
「そうじゃな、」
「はい、私からもいいですか?」
たまこが小さく片手を上げたことで、朔は言葉をのみこむ。
「母親としての意見になるんだけどね。どうしても親って子どもを心配をする生き物なの」
アカは納得できないとでも言いたげな顔をした。それはそうだろうなと栞も思う。親が心配するからという理由で言うことを聞く子どもは世の中に少ない。
「もしも自分の息子がアカさんのようにどこの誰かも分からない大人に会うって知ったら、私だってきっと心配すると思う。自分はこんな風に朔さんたちと会っているのにね。矛盾してるって思うかもしれないけど、自分の子どもは特別扱いをしてしまう。悪いもしもを考えてしまう。……確認を怠った私たちも悪い。でも、アカさんには自分が未成年だってことは事前にちゃんと伝えてもらいたかった」
「……ごめんなさい」
すっかりアカはしょげてうなだれている。たまこの言葉を反発せずに受け入れてくれたようだ。
「ありがとう。……あ! 早く注文しなきゃね。お店の迷惑になっちゃう」
張り詰めていた空気をほどきメニューを広げる。
大人たちが気分を切り替える中、アカはまだ一人うかない顔をしていた。
「あの、私、帰った方がいいんでしょうか?」
しょぼくれた声に一瞬顔を見合わせると、代表してたまこが返事をする。
「どうして?」
「だって、さっき……」
「ああは言ったけど、もう来ちゃってるんだから今更すぐに帰したって仕方ないでしょう。夜ならともかくまだお昼だし、ご飯くらい食べたって構わないと思うよ」
「散々言っておいてなんですけど、アカさんのことだまそうとか思ってないですしね。そもそも中学生だまして得られる利益って……誘拐するにしたって、デメリットの方が多いと思うんですよね。――塩さんもそう思いません?」
「あ、はい。そうだと思います」
利益やら誘拐やら直接的な表現を口にするなと驚いていたところに、急に話を振られ慌てて同意する。
「と、いうわけです。ほらほら、固い話は終わりにしてちゃっちゃと注文しちゃいましょう」
まだ戸惑うアカを見かねたたまこが、メニューを手渡す。
「あ、え、えっと、ありがとうございます」
「どう? 食べたいものある?」
「……オムライスに、します」
少し気恥かしそうに言ったアカは、栞の目からも可愛らしく見えた。
「改めてちゃんと自己紹介しておきましょうか」
注文を終え一息つくと、うやむやになっていたのを取り返すようにたまこが切り出した。
「じゃあ、言い出した私から。『たまこ』こと、田口絢子です。主婦してます」
アカがいるからだろう。本名と職業もあえてたまこは口にしたようだった。
もしも親から今日のことを聞かれた時、すぐに説明できる程度の情報は知っていた方がいい。
「『朔』、新子美月です。大学生です」
たまこの行動に賛同するように朔が続く。
「『塩』です。幕井栞です。接客業してます」
異論はなかったので、栞も追随した。
「『アカ』……松崎佳苗です。中学二年生です」
俯きがちになっていた顔をあげて、アカがまっすぐ栞たちを見据えて言った。
つり目だからなのか、性格からくるものなのか、彼女は目力が強い。
「こうやって会って誰かとホノマホの話ができるなんて思ってなかったから嬉しいです。ありがとうございます」
「こちらこそ。アカさんと塩さんがいなかったらそもそもこの場はなかったわけですし、お礼を言うのは私の方ですよ。たまこさんもありがとうございます」
「お礼を言われるようなことはしてないですよ」
今回の集まりはたまこの『会いませんか?』という一言から実現したものだ。
だがそもそもの始まりは、半年前の栞の行動だ。
あの日『誰かとホノマホの話がしたい』とつぶやいていたアカウントに、衝動のままに栞はメッセージを送った。
栞はSNSに積極的なタイプではなかったので、面識のない相手にメッセージを送るというのは、はじめての行動だった。
一瞬のためらいよりも勢いが勝ち送信したはいいが、ぶしつけだったのでないかとすぐに不安におそわれる。だが落ち込むよりも早くスマートフォンが軽い音をたてた。
画面を見ると通知が来ている。送信してからたった一分で返信が届いたのだ。
『はじめまして! ホノマホのファンの方ですか? まわりに話せる人が誰もいなかったので、声かけてもらえて嬉しいです。私、ルビーとリオが大好きです』
ルビーとリオが大好き。その一文で、感情が鮮やかによみがえったのが分かった。
摩耗していた感性が生き返ったように気持ちが動く。心なしか体温も上がったような気がした。
ホノマホ――『炎と魔法使い』は栞が中学生だった頃、友達と夢中になって読んだ少女小説だ。
友情を、恋を、勇気を、愛を、栞はホノマホから教えてもらった。
主人公は、波うつ鮮やかな赤い髪がトレードマークの、無鉄砲だけど明るくて前向きで勇気をいっぱい抱えている友達想いの女の子、ルビー。
そして、一巻の表紙にも描かれている理知的な顔立ちをした綺麗な黒い髪を持つルビーの友達、リオ。
物語は、十五歳のルビーとリオが同じ家に住み暮らす描写から始まる。
正反対の性格をしているのに仲の良い二人は、読み進めていくと似ていない双子でも、年子の姉妹でもないことが分かっていく。
一緒に住んでいるのに家族ではないリオは、ルビーの家に世話になっていて、血の繋がりはなくとも、本当の家族のように暮らしていた。
冒頭で描写される日々の暮らしはつつましいけれど幸せそうで、中学生の栞には羨ましいくらいだった。
けれどルビーとリオの穏やかで優しい生活はページを進めていくと簡単に崩れていってしまう。
波乱が無ければ物語にならないと分かってはいても、彼女たちの全てが踏みにじられて壊されてしまう展開には胸が痛んだ。
ルビーは普通の女の子だった。
同じ赤毛でも十二国記の陽子のように、実は特別な生まれだったりしない。
レヴィローズの指輪のジャスティーンのように、実は特別な力を秘めていたりもしない。
無知で、無力で、どうしようもなく運命に翻弄される。理不尽に踏みつぶされそうになる。
最初から最後まで、たったの一つも特別な力など持っていない女の子がホノマホの主人公だった。
でも、なんの力もない女の子のはずなのにルビーは誰よりも大きな勇気を持っていた。絶対に希望を諦めない心の強い女の子だった。彼女に特別なところがあるとすれば、きっとその心ひとつだった。
特別なのはルビーではなく、リオの方だった。リオはうまれついての魔女だ。
ホノマホの世界では魔女は迫害されている。
聡明なリオは絶対に自分が魔女だとバレないように気をつけて生きていた。
しかし、ある日溺れた子どもを助けるために魔法を使ってしまい告発される。
父母の機転でルビーたちは逃げ出せたが、その日の夜には魔女を隠匿した罪で家は焼かれ、父も母も殺害される。
全てを失うことから彼女たちの旅は始まるのだ。
親も家も失い逃げ出した二人に、世界はちっとも優しくできてはおらずそれからも苦難ばかりが彼女たちを襲う。
失い、裏切られ、失望する。
それでもルビーは諦めなかった。リオが捕まり二人が離れ離れになっても、進むことを止めない。そんなルビーの人間性に惹かれて物語が進むごとにだんだんと二人に協力してくれる人は増えていく。
そうやって沢山の人や、国すらも巻き込み、ルビーとリオは魔女だけが迫害される魔法の秘密を解き明かしていくのだ。
彼女たちは世界を知ることで、悩み、苦しみ、喜び、傷つき、救い、怒り、迷い、慈しみ、救われ、恋をする。人を、愛する。
――憧れた。
ホノマホは、栞にとって一番大切な物語だった。
思い返すだけで、心に熱が宿る。
心が、潤う。満たされる。
ホノマホの新刊が発売するから、嫌なことがあっても頑張れた。新刊が出るたびに友達と時間を忘れて感想を語り合った。
楽しかった。まばゆいほどの輝きがそこにはあった。
十代の栞の中心にはいつだってホノマホがいた。
それなのに、いつの間にか自分の内側にしまい込んで誰にも見せなくなっていた。
ルビーやリオ、彼女たちの存在が栞の心を形づくったというのに自分の中に隠すように閉じ込めた。
所詮、フィクションの中にしか存在しないキャラクターだと誰かは言うかもしれない。けれど人をつくるのは言葉だと栞は思う。
与えられた言葉が、手に取ってきた言葉が、人をつくりあげる。
だから栞をつくったのはホノマホだ。
不安定な中学時代にホノマホに出会えたから、すかすかだった栞の内側に言葉が積み重なりどうにか大人になることができたのだ。
「アカさんってどんなタイミングでホノマホを知ったの? 本屋にはもう置いてないよね?」
運ばれてきたばかりのパエリアを食べながらたまこが言った。
「前に好きな作家さんがホノマホのことを話してたの見かけて、検索してみたら電子書籍があったのでそれで読みました」
「電書か!」
「なるほど……うわ、なんかちょっとジェネレーションギャップ感じました。そうですよね、そりゃそうですよね。中学生でもスマートフォン持ってるの普通ですもんね、電書だって使いますよね」
「いやでも、普段は漫画とか小説とか普通に本屋で買ってますよ。ネットでお金使う時は親の許可取らないと駄目なんで、面倒くさいんですよ。購入履歴残るからごまかせないし。でも、なんか、どうしてもホノマホ、読みたくて、お願いしてみました」
集まる視線に照れながらアカは話を続けた。
「電子書籍ってどう? 私まだ使ったことないんだよね」
「便利ですよ。場所取らないですし」
「読みにくくない?」
「慣れれば全然です」
「私も小説はまだ本屋で買ってますけど、漫画はほぼ電書ですね」
「やっぱり今の子ってそうなんだねえ」
しみじみとたまこが言った。これまで母親らしさは感じても年齢を感じさせる発言は少なかったのに、その言い方には妙に年を感じた。
「……手に、取りたくなったりはしないですか」
無意識に思ったことがそのまま口から出ていた。瞬間、しんと静まった空気にひやりとする。
「なりますよ。だから、本当に好きな作品は本棚にいます。勿論、ホノマホも」
ほがらかな笑顔を朔から向けられたことで、不快に思われていなかったのが分かり安心する。非難しているように聞こえたのではないかと心配になったのだ。
「いいなあ、私もホノマホは本で買いたかったです」
「絶版になってるはずだけど、どうにか手に入ったりしないのかな?」
「ネットとかで探せば買えるのかもしれないですけど……その場合、親の許可がもらえないと思うんですよね。一度読んだもの買ってどうするのって言われると思います。うちの親、フィクションがいらない人間なので、」
「分かるよ」
「え?」
きょとんとしたアカの顔を見て自分が食い気味に言葉を発したことに気づく。
「あ、えっと、私の親も、フィクションを必要としていない人間だったから」
「そうなんですか?」
「うん。……昔、そんなもの読んで何になるの。って、言われました」
栞の親は、小説を読まない人だった。映画を見ない、ドラマを見ない、漫画も読まない。人生に物語を必要としていない人だった。
「共通言語を持っていない相手と会話をするのって難しいですよね」
苦笑しながら朔が言う。
「共通言語?」
「お互い日本語を使っているはずなのに会話できないことってあるじゃないですか。そういう時に私は、ああ、この人と私は共通言語を持っていないんだなって思うんです」
「……どういうことですか?」
説明を聞いてもよく分からないようで、アカはぽかんと口を開けている。
「朔さんが言っている共通言語が違うっていうのは、ようは常識が違う……ってことかな?」
口元に手を当ててたまこが言った。
「分かりやすく言うならそうです」
「でも感覚的にはちょっと違う?」
「そう、ですね。経験とか固定概念とかそもそもの性格とか環境とか、色んなものが複雑に混ざり合って共通言語ができると思うので、常識だけだとちょっと違うかなって気持ちになります。もしも常識だけが違うなら、もっと妥協しあって歩み寄れるような気がするので」
何かを思い出すように朔は表情を曇らせる。
「言葉が通じるのに、会話ができないって虚しいですよね」
喉が、きゅっと鳴った。
腹の底から込みあがった感情をぐっとのみくだす。そうしないと熱いものが目からこぼれ落ちてしまいそうだった。
人は、唐突に、思いもよらないところで、気持ちを代弁してくれる言葉に出会ってしまうと、こんなにも心が揺さぶられてしまうのか。
俯くと堪えるのが難しくなりそうで顔を持ち上げた。すると、正面に座っているアカと目が合う。
彼女から小さく息をのむ音がした。
「話がちゃんとできるって、実はすごいことだったりするんだよね」
「はい、そう思います」
たまこも朔も、涙をこらえる栞の様子に気づいているはずなのに、素知らぬ顔で会話を続けた。
「……だから、なんていうのかな……こうやって、会えて、良かったよね」
なんか照れるね! と言うとたまこは手で顔を扇いだ。髪からのぞいている片耳は赤くなっている。
「私も、そう思います。だから、もし良ければ、なんですけど。それぞれ、都合が合う時でいいので、また…………会いませんか?」
「――是非」
朔の申し出に答えた自分の声はまだ潤んでいて、気持ちをごまかせてはいなかったけれど、人前で泣いたら迷惑に思われてしまうだろうかなんてことは、この時は少しも思わなかった。
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