まだ体内に少女を飼っている

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「幕井さん、休憩どうぞ」  荒垣店長からの一言で、栞はレジの合間に作業していた雑用の細々したものをさっと端に片付けた。 「やっておくことはある?」 「急ぎのものはないので、大丈夫ですよ」  ひとまわり年上の荒垣は気遣いの細やかな女性だ。もう五年ほどの付き合いになるが、栞は彼女に不満を持ったことがない。良い人、の見本のような人だ。  大学四年生の頃、就活に苦戦していたアルバイトの栞に、荒垣は社員にならないかと声をかけてくれた。  契約社員になるかもしれないが、それでもいいならこのままここで働くのはどうだろうかと提案してくれたのだ。  何通も届く不採用通知にへこまされていた栞は、一も二もなくその提案に飛びついた。  接客業が自分に向いているとも思ってないし、消極的選択だったが、三年たってもどうにか栞は無事に社会人をやれている。それを考えれば自分の選択は間違いではなかったのだろう。  駅ビル従業員用の共有スペースは、お昼の時間を少し過ぎていたため空席が多かった。  端の席で無感情にお弁当の中身を口の中に詰め込むと、スマートフォンに触る。  通知がきていたのでアプリを開くと、たまこから予定を確認する連絡が届いていた。  たまこたちとはこの前の集まりの最後にLINEを交換した。  悩んだが、アカも含みまた会う予定をたてている。  あいてる日程をグループLINEに送る。未読のメッセージは他にもあったが、それには触れずにスマートフォンから手を放した。  休憩から戻ると、レジにアルバイトの木村がいるだけで店内にお客の姿はなかった。 「戻りました」 「お帰りなさい」  バックヤードでは、在庫に囲まれた小さな机で荒垣が事務作業をしていた。 「木村さん帰るまでに次のフェア商品の確認しておいてもらえる?」 「了解です」  木村は、開店時間の十一時から十六時までのシフトで働いている。栞が契約社員になった頃にアルバイトとして勤務し始め、三十歳ですでに小学五年生の子どもを立派に育てている母親だ。  明るくパワフルな人で、はっきりした人柄に気後れする時もあるのだが、彼女の快活さは接していて気持ちが良い。 「幕井さん、前より明るくなったよね」  フェア商品の詳細を確認していると、脈絡なく荒垣が口を開いた。 「そう、ですか?」 「ちょっと前くらいからかな? 雰囲気、明るくなったよ。木村さんもそう言ってた。幕井さん何か良いことでもあったんですかねって」 「良いこと」  最近であれば、原因は一つしかない。 「思い当たることあるんだ? ふうん、そっか。そっか、そっか」  栞の顔色から察したのか、喜びを押さえられないといった様子で、荒垣は口の端を持ち上げている。 「どうしたんですか店長」 「嬉しくて」  柔らかく微笑む彼女の目はとても優しい色をしていて、直視できなかった。 「身近な人に良いことがあると嬉しくならない?」 「……そうですね」  つい素っ気ない言い方になった。  もっと上手な返し方ができたらいいのに相変わらず会話が下手だ。まだ笑顔を浮かべられただけ良かっただろうか。  なんの引け目もなく、鬱屈した思いも抱かずに、素直に頷くことができる人間なら良かったのにと心から思う。  素直に言葉を受け取れる人間に、人の喜びを自分のことのように手放しに喜べる人間になりたかった。  なのにそうなれないから、目をそらしてしまう。  荒垣と初めて会った時、アルバイトの面接で彼女と出会った時からそうだ。  面接のはずなのに事務的な話は最初だけで、途中から脱線してあれこれ自分の話をさせられたのだが、荒垣は栞の話に一喜一憂していた。  初対面の相手の話をどうしてそこまで真剣に聞くのだろうと不思議だったし、変わった人だなと思った。  働き始めてからも、彼女は従業員の話をよく聞き、一緒に喜び一緒に悲しむ人だった。けれど自分の負の感情は表に出さない人だった。  最初は少し嘘臭いなと思っていた。人が良すぎて、苦手だった。  だって、栞は人はもっと利己的な生き物だと思って生きてきたのだ。  人が人に優しくできるのは自身に余裕があるからできることだと思っていた。  人が人に持つ興味というものは、とても消費的なものでそのほとんどは好奇心でつくられたものだと思っていた。  現実には、物語に出てくるような人間はいないと思っていた。  だから、この人は純粋に良い人なのだと気づいてしまった時の形容しがたい感情を、栞はまだ引きずったままでいる。 「この分なら、大丈夫そうで良かったよ」 「何がですか?」  内心を吐露するような言い方がひっかかった。彼女はあまりそういった面を見せる人ではない。 「私、今年いっぱいで退職するから」  言葉を理解するまでに時間がかかった。 「………………え?」 「退職するの、人事にはもう話してある。まだ、半年あるから店の皆には黙ってたけどね」 「な、んで、ですか」 「大学受験するから」  結婚するからとか、転職するからとか、地元に帰るからとか。  当たり前に思いつく言葉が荒垣の口から出てくるのを身構えていたから、想像もしなかった単語が飛び出てきて、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。 「だいがく」 「うん、今から取り返そうと思って」  彼女はとても晴々とした顔をしていた。 「ふっとね、思ったの。まだ後悔があるなら今からでもやればいいって」  ひとまわり年上の荒垣は今年三十七歳になるはずだ。これまでは断っていたそうだが、このまま働いていればおそらく近い内に店舗スタッフから昇進して営業本部に移るはずだった。  彼女との別れが来るのであればきっとその時だと栞は思っていたのだ。 「いつ言おうかタイミングに迷っちゃって、すぐに伝えられなくてごめんね。退職するにあたって幕井さんには色々と引き継ぎとかお願いすることも多いのに」 「いえ、それくらいはいくらでも。あの、応援、してます」 「ありがとう。私も、応援してる。私がいなくなった後もこの店をよろしくね」 「…………はい」  へらりと、どうにか浮かべた愛想笑いは多分とても頼りないものになっていただろう。  雑踏から聞こえてくる会話の全てが、呪文にしか聞こえない。  にぎやかな駅構内ならまだしも、会話が少ない帰宅ラッシュ中の電車内でもそうだった。人の言葉が言葉の形になって耳に入ってこない。  栞の頭はたった一つのことしか考えられなかった。  荒垣の「退職するの」と言った声が頭から離れない。  あのあと通常業務に戻ったが、自分がまともに働けていたのかあやふやだ。もしも今日の閉め作業でレジの金額が合っていなかったら栞のせいだろう。  上司が変わるなんて普通のことだ。人事異動だって当然その内あるはずだった。それが今回は異動ではなく荒垣の退職という形になっただけだ。  なのにどうしてこんなにも、これまで積み上げてきたもの全てが崩れ去っていくような心持ちになっているのだろう。  自分が変化が苦手な性格だということは分かっている。だが今のこの気持ちは、いつもの漠然と忌避する気持ちとはまた違った種類の感情だ。  冗談でしょう、と。己を詰りたい。  数年付き合った海にすら執着できなかったくせに、結局いつまでたっても与えられなかったものを求め続けていただなんて馬鹿みたいだ。  自分が荒垣に何を求めていたのか、何を重ね合わせていたのか、知りたくない。  気づかなければ、なかったことにできるだろうか。  朝は降っていなかった雨が、しとしとと地面を濡らしている。  帰りの雨を予想して履いてきたレインシューズでばしゃりと水たまりを踏んだ。  ぱっと見普通のスニーカーと変わらないこの靴は、ここ数年重宝していた。  ばしゃりと水たまりを踏む。  二回目は一回目よりも足に力が入っていたので、跳ねた水がズボンの裾を濡らした。  家までの帰り道、栞は水たまりを踏み続けた。  家に帰ると、ラップで小分けにした冷凍ご飯を解凍して、昨日作った回鍋肉と、納豆、フリーズドライの野菜スープを適当につけたテレビ番組を流しながら食べた。  食べ物を嚥下していると、身体に体温が戻っていく。  事態は何も解決していないけれど、少しましになったメンタルで当たり前の日常生活をこなす。  個人の感情、よりも日常の方が強い。  何も食べたくなくともお腹は空くし、二日酔いになっても次の日のシフトは消えてなくなったりしない。  大人になった栞はそれをよくよく理解している。だからご飯を食べる、明日の用意をする。スマートフォンに表示される未読メッセージを無視だってする。  未読の数字だけが増え続けるメッセージの送り主は二人いる。  一人は海だ。  お互いの合鍵を返さなくてはいけないのだが、ポストにでもいれておけばいいと言う栞に対して、彼は手渡しするの一点張りで意見が平行線になった。  別れる時には『分かった』とあっさり引いた海が何故か今回は簡単に済まさないので、堂々巡りのやり取りを繰り返している。  いい加減返答しようがなくなり『会えそうな時があれば連絡します』とだけ送って、今は絶賛放置している状態だ。  だがまあ、海からの連絡はちゃんと必要なものだからまだいい。  問題は毎日未読の数字が増え続けている、もう一人の方だ。  どうせ見たくもない言葉が並んでいるのだろうと簡単に想像できてしまうので、送られてくるメッセージを開く気にもなれない。  ぼうっと画面を眺めていると、それまで表示されていた画面がぱっと変わりデフォルトの着信音が鳴り響いた。  急な音に驚き、反射で肩がびくりと震える。  誰が電話をかけてきたかは見なくとも分かった。  到底出る気にはなれなくて、虚しく鳴り続けるスマートフォンから手を放す。  栞の電話番号を知っている相手は限られている。  留守電に切り換わるまで粘ったようで、着信音は三十秒ほど鳴り続けた。  履歴には想像した通りの人の名前があり、留守電が一件残されていた。  負の感情を息に変えて身体から吐き出し、スマートフォンを耳にあてる。  留守電が再生されると女性の電子音声が数分前の日時を告げた。  待ち受けているのが嫌なものであればあるほど待ち時間とはとても長く感じる。 『もしもし、栞?』  スピーカーから早口でまくしたてる女性の声が流れてきた。  第一声からすでに声に苛立ちが滲み出ている。短気なこの人が三十秒も電話を鳴らし続けたのだ。 『あんたねえ、私のこと馬鹿にしてるの?』  尖った声音に、いつも通りだな、と思った。 『忙しい忙しいって大した仕事してるわけでもないのにいい加減にしてくれる?』  自分だってパートでスーパーのレジ打ちをしているのに、同じ接客業でも栞の仕事は彼女の中だと大した仕事ではなくなるらしい。 『今年の夏こそ帰って来るんでしょうね? 正月もお盆もちっとも帰ってきやしないんだから、本当に勝手な子。今年は帰って来なさいよ、いいわね』  よく秒数内に間に合ったなと思うくらいには短い時間の中であの人らしさが詰まっていた。始めは疑問形だったのに最終的には命令になっている。  就職してから栞は一度も実家に帰っていない。  帰ったところで、壁打ちの壁になるだけなのだ。自分から積極的に帰ろうと思うわけがない。  だってこの人は、一年に一度くらいは娘が実家に帰っている姿を近所に見せておかないと外聞が悪いから帰って来いと言っているのだ。  勝手なのはどっちだ。  そう思っても、あの人の頭の中では悪いのはいつも自分以外の誰かにすり替わるため口にしたところで意味がない。  その対象は例えば栞だったり、亡くなった祖父であったり、同居している祖母であったり、別れた栞の父親だったり、はたまた名前も知らない誰かだったりと様々だ。  昔はもっとこの人に対して思うところもあった。望んでいたこともあった。けれど大人になった今ではもう何も期待していない。  ただ、ひとつ、ひとつだけぶつけてやりたい恨み言はあるけれど――。  両親は、栞が小学校五年生の夏に離婚した。  小学校にあがる頃にはすでに夫婦喧嘩の声が子守唄になっていたから、今から思えばよく何年も結婚生活を続けたなと思う。  離婚の際、あの人は親権を主張して栞を引き取った。  愛していたからではない。離婚を聞きつけた祖父母や親戚に、当然お腹を痛めて産んだあなたが育てるのでしょうと直接的にも遠回しにも言われ仕方なく引き取ったのだ。  父親とは離婚以来一度も会っていない。噂では再婚したらしいが、どうでもいい。  父親はたったの一度も栞との面会を望まなかった。だから、どうでもいい。  栞の地元は関東の端っこにある山と田んぼに囲まれた田舎だ。  人口の少ない町だと、結婚も離婚も出産もすぐ近隣にしれ渡る。  それを厭った父は仕事も変えどこかに引っ越していった。  噂にさらされ続ける栞のことなど簡単に捨てて。  田舎であっても本当なら離婚なんて珍しくはない。栞の同級生にだって片親の家庭はあった。  ただの離婚であれば人の話題にのぼったとしても一日くらいで通りすぎていくだろう。だが栞の母は高校の卒業間際に妊娠していた。  未成年同士で無責任に子どもをつくったことを上の世代の人たちは覚えていて、離婚したと知るやしたり顔で話をしていた。  ひそひそと隠されたとしても念のこもった言葉というものはどこかから本人にも届く。そうした噂話を聞いている内にふと栞は気づいた。  自分は、あの人たちにとって失敗の象徴なのだということに。  どうして笑ってくれないのだろう、抱きしめてくれないのだろう、好きなものすら否定するのだろう、そう思っていた。  どうすれば笑ってくれるのだろう、抱きしめてくれるのだろう、会話してくれるのだろう、そう思い悩んでいた。  全て無意味だった。だって、存在そのものをうとまれていたのだ。  中学三年生の春。あの人は「あんたさえいなければ」と憎々しげに言い、どれだけ栞のせいで自分の人生が狂ったのかありとあらゆる恨みつらみを吐き出した。  どうやらその頃付き合っていた相手に栞の存在を知られたせいで振られたようだった。  相手は当時あの人が働いていた職場の同僚だ。  あの人が離婚したあとに県外からやってきた人で、過去を知らない相手と接し栞を妊娠しなければ存在した人生への思いが強くなったようだった。  あの人は、どうやら栞さえいなければ幸せな人生をおくれるはずだったらしい。  だいたいの事情はすでに知っていたけれど、本人の口から聞かされると思いもよらない気持ちになるものだ。そしてその日から、あの人に期待するのは止めた。  正直なところ、あの人は恩着せがましく誰が育てたと思っているんだと繰り返すけれど、離婚してから栞の生活にかかる費用の大半をまかなっていたのは祖父母だ。  離婚に伴い、アパートを引き払って祖父母の家に同居することになったが、持ち家なので家賃は発生しないし、水道光熱費は祖父が支払っている。食事だってほとんど祖母が作っていた。  小学五年生の夏。まだ、三人で暮らしていた頃。その時までは義務は果たしているという意味ではあの人も栞の親だった。感情はともかく衣食住などの生活の面倒はみていた。けれどその生活は決して余裕のあるものではなかった。  あの人が妊娠した時、一つ年上の父親はすでに高卒で働いてはいたが、三人分の生活を支えられるほどの給料ではなかった。  祖父母たちは二人が親になることに否定的であり、妊娠が発覚した際の話し合いで関係に亀裂が入っていたため二人は両親に頼ることもできなかった。  実際は陰でどちらも援助をしていたそうだが生活がどうにか成り立つレベルの話だ。それまで不自由なく暮らしていた人間が急に覚悟もなく日々の生活に頭を悩ませるようになれば、その結果どうなるかなんて分かり切っている。  貧しさとは毒だ。いずれ心身を脅かす。  愛だけでは生きていけない。安定した生活が伴っていない愛はゆるやかに崩壊していく。余裕がなくなっていく。相手の些細な行動に苛立つようになる。不幸の理由を探すようになる。目が濁る。世の中を斜めに見るようになる。主観が歪んでいく。  愛さえあればどうにかなるというのは、盲目な子どもの理想か、恵まれて育って大人になった人間の甘い考えか、嘘だ。  妊娠してから離婚するまでの生活で、今のあの人はできあがった。  栞のせいで苦労したという思いであの人はできあがった。  だからどうしようもない。  二十代という大切な時間を栞のせいでどぶに捨てたという彼女の強い気持ちの前では、これから栞が何をしようが取り戻せない。  もう栞はあの人に何も求めていない。親らしさも望んでいない。面と向かって嫌味を言われようが、何も思わない。  怒りもなければ悲しみもない。愛されたいなんて思っていない。  けれどたったひとつだけ、ひとつだけ心の奥底でくすぶり続けている気持ちがある。それが栞を突き動かし、お前のせいだとなじりたくなる瞬間がある。  愛してくれなくてもいい、でも、これだけ、せめてこれくらいはと、思う。  母親だというのなら、せめて――人の愛し方くらい、教えておいてほしかった。
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