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「飼ってるんですよ、黒猫」
二回目の集まりは、さあさあと雨が降る六月の半ば。前回と同じファミレスで行われた。
「元々飼ってたんですか? それともノエルくんの影響で?」
ノエルとは、ホノマホの登場人物だ。
リオの弟であり魔法使いの少年なのだが、普段は黒猫に変身している。作中で描写される、黒いふかふかの毛並みを触ってみたいと思った子はきっと多いだろう。
美少年なうえ、擦れた物言いなのにお人好しな性格で隠れシスコンのノエルは、ホノマホの男性キャラだと一番人気だった。
「ノエルくんの影響です」
いつもは表情が崩れない朔が、満面の笑みを浮かべている。
「朔さんノエルくん推しって言ってましたもんね」
「写真見たいです!」
「ちょっと待って下さい、画像出しますね」
全員に見えるように朔はスマートフォンを机の真ん中に置いた。
画面には真黒でふかふかな毛並と綺麗な青い目を持つ猫が大きな椅子にちょこんと座っている画像が表示されている。
「可愛い!」
「目もノエルくんと同じ色じゃないですか!」
「それで、えっと……名前は、ノエル……です……」
彼女にしては珍しく歯切れのわるい言い方だった。
「どうかしました?」
朔の耳は赤く染まっていた。
「いやなんかちょっと恥ずかしくてだってノエルくん好きで、それで飼い猫にノエルくんの名前そのままつけるのってなんか……なんか……ちょっと、なんですかねこの、ラブレターを友達に読まれたみたいな気恥かしさは」
「私の友達にも好きなアイドルのあだ名を犬につけた子とかいたし普通のことだと思うよ」
フラットなたまこの言い方に朔も落ち着いたようだったが、まだ耳だけは赤いままではじめて栞は朔に年下らしさを感じた。
「今までノエルって言ってもクリスマス関連の話しか返ってこなかったので、改めてホノマホ仲間の皆さんにお伝えするのって変な感じです」
「私も買ったっきり積んじゃって、読んだ時にはもう完結からしばらくたってたから、話し相手がいなかったんだよね。だから今こんな風に話せているの不思議に思う時あるよ」
主婦なんてそもそも普段の話し相手すらいないし。とたまこは苦笑した。
「大人になると一年が急に短くなって色々追いつけなくなりますよね」
「流行とか全部気づいたら終わってるんだよね。特に子どもがまだ小さい時なんかはもうめちゃくちゃ時間過ぎるのが早かったな」
「そういえば、たまこさんって結婚されてからずっと専業主婦だったんですか?」
「一時期はパートもしてたよ。でも一度だけ体調崩したことがあって、その時に無理してまで働かなくていいって夫に言われてからはずっと専業主婦してる」
とっくに知っていたことだけれど、世の中にはたまこのところのような夫婦もいるのだということに直面すると栞は少し驚いてしまう。
「え、そうなんですか。体調はもう大丈夫なんですか?」
「数年前の話だから、今は全然元気だよ」
たまこは栞の親よりも年上だ。日本の四十六歳はまだまだ人生の折り返しくらいでも、体調が心配になってくる年齢ではあるだろう。
「そういえばその時にホノマホを読んだんだよね」
「体調を崩された時にですか?」
「そう。検査のために一日だけ入院したんだけど病院って暇なんだよね。だから夫に頼んで積んでた小説を持ってきてもらったの」
「うちのおばあちゃんも入院した時にお見舞いに行ったら暇だ暇だって繰り返してました」
アカは喋りながらパフェのバニラアイスをスプーンですくったが、アイスはすでに大部分が溶けて液体になってしまっていた。
どろりと溶けたアイスをコーンフレークに混ぜてアカはそれを口に運ぶ。
「うん。でも、ホノマホ読み始めたら退院まではすぐだったよ」
病院の消灯時間が憎かった。そう笑うたまこを見て、アカはスプーンを口にくわえたまま何かを考えていたが、やがておずおずと話を切り出した。
「失礼かもですけど、大人もライトノベル読んだりするんだ。ってたまこさんに最初に会った時に思ったんですよね。なんか、私たちとそんなに変わらないんだな……って」
それは決して馬鹿にした言い方ではなく、例えるのなら学校の先生が娘や息子と一緒にいるところを初めて見た時のような雰囲気だった。
「大人なんてただ子どもだった個人が年齢を重ねただけだからね。好みなんてそうそう劇的に変わらないし、ライトノベルだって読むよ」
「そうなんですね……」
子どもの頃は、子どもと大人の間に明確な境目があった。大人は大人という生き物で、子どもとは違う何かだった。
栞は子どもの頃、祖父母や両親がそうであったから、大人にはフィクションがいらないのだと思っていた。
アカが大人もライトノベルを読むことに驚いたように、栞も大人にもフィクションが必要な人がいることを知った時は驚いた。そして、自分はおかしくないのだと知り安心したのだ。
現実のどこにもない、嘘の世界でも、それが虚構でも、好きでいてもいいのだと、安心した。
自分よりもフィクションに夢中な大人がいることに安心した。
なんの役にも立たなくても好きでいてもいいのだと知り安心した。
「じゃあ、フィクションがいらない人は子どもの頃からそうだったんですかね」
「アカさんの、ご両親?」
アカはすぐには答えず、まだ残っていた溶けたアイスを再びコーンフレークと混ぜ、口にし、のみ込んでから、肯定した。
「そうです。……私と両親の間には本当に共通言語がないんですね」
「二才児は皆アンパンマンが好きだから、ほんの少しもフィクションに触れていない人は少数派だと思うけどね」
気持ちを軽くさせるために、あえてズレたことをたまこは口にしたようだった。
「……世の中、フィクションのいらない人は結構多いですよ。年間一冊も本を読まない人は多いそうです。でも、それだけで人を決めつけるのは少し勿体ないと思いますよ」
「勿体ない、ですか?」
「話が合う相手との会話は楽しいですけど、世の中色んな人がいますから合わないことだってあります。それでも世の中は破綻せずに回っている。趣味は合わなくとも仲が良い人だっていますよ」
たまこと朔は、子どもが陥ってしまいがちな極端な結論をアカが出さないないように心配しているのだろう。
家族のことに不用意に他人が口出しするのは難しいから、そちらを言及したのだろう。
それが分かっていても、栞はアカと両親の関係が気になってしまった。勝手なシンパシーをいだき、余計な口出しをしそうになる。
「私も職場の人と趣味の話はしたことないですけど、関係性は良好ですよ」
しかし喉に溜まった言葉を堪えて最低限の配慮だけを口にした。
多分、アカの欲しい答えを栞たちは一人として言葉にしていない。
はぐらかされたと思われたとしても、家庭の問題になると、距離が近いようでいてとても遠くにいる栞たちが関わっていいラインを越えてしまう気がしたのだ。
ハンディタイプの扇風機が売れる季節になった。
空からは太陽がじりじりと焼いてくるし、地面からはコンクリートの照り返しで熱気がたちのぼってくる。
太陽を反射したコンクリートの灰色の眩しさに目を細めながらこめかみから流れてくる汗をぬぐった。
日傘をさしていても暑すぎて気休めにしかならない。なんとなくスカートの気分じゃなかったのでジーパンにしたのだが、そのせいでより暑かった。
目的地の直前まできてもまだ気が重く、自然と視線が下がるとターコイズ色に染められた自分の足の爪が視界に入る。
本当は栞は赤色が好きだ。
だってそれはルビーの色だから、でも、それが似合わないことは自分でよく知っている。
赤、という色は鮮烈で目立つ。
輪の中心にいるような子が似合う色だ。自分には似合わない。本当は前に一度試してみたこともある。赤いスカートと赤いペディキュアは、単体ではどちらも可愛くて綺麗だった。けれど似合わなかった。
似合わなかったのだ。
「久しぶり」
店に入ると涼やかな空気が肌を撫でた。
「ひ、さし、ぶり」
屋内に入ると強烈な陽光との明るさの変化で最初は目がちかちかする。
焦点が曖昧な視界に、店員に向けて指をピースにしている男の姿が見えた。向こうもちょうど到着したところだったのだろう。
別れたのが十二月の頭だったから最後に会ったのは半年以上前だ。
夏だからか見慣れた姿よりも髪がさっぱりと短くなっている。紺色の半袖シャツは去年も着ていたので見覚えがあった。
もっと変化があるかと思っていたが、そこには栞のよく見知った男がいた。
ずるずると先延ばしにしてきたが、本日とうとう海と会うことになったのだ。
「驚きすぎだろ」
ふっと笑ったその顔は、何度も見たことのある彼の表情だった。
「お連れ様でいらっしゃいますか?」
「そうです」
「ではお席までご案内いたしますね」
面食らってしまい、店員が動き出しても栞は動けなかった。が、先に進んでいた海がそれに気づき栞をちょいちょいっと小さく手招く。
そんなやり取りもどこか自然で、まだ自分たちは付き合っているのではと錯覚するくらいに彼の態度は普通だった。
「忙しそうだったけど、元気か?」
注文を終えると早々に話を切り出された。
彼がわざわざ会おうとした理由が分かるようでまったく分からないので、当たり障りのない会話すら返答に迷う。
「うん、……海は?」
「まあ前と変わらないかな」
声音はとてもやわらかで勝手に別れを告げた栞を批判する様子は少しも見えなかった。
「あの、これ、返すね」
腕を伸ばして海の目の前に鍵を置く。
これからどのような話をされるのか分からない。
話の流れでどちらかが感情的になった結果、渡し忘れてしまう可能性があるかもしれない。先に出しておいた方が良いと思った。
彼は短気ではないし、怒鳴ったりする人でもないと知ってはいるが、別れ方も、その後のやり取りも、不誠実だった自覚がある。
一歩的な行動ばかり取った栞に対して海が怒っていてもおかしくない。
「ああ、ありがとう」
テーブルの上に置かれた合鍵に海は視線を向けたが、触ろうとはしなかった。
ぽつんと置かれたままの鍵が行き場をなくしている。
「……あの、私の」
沈黙に耐えきれなくなり自分から促そうとすると、最後まで言い切る前に明るい声に遮られる。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーのお客様」
「はい」
海の前にアイスコーヒーが、栞の前にはアイスティーが置かれた。
店員が立ち去るとまた気まずさがぞろりと顔を出す。
店内には音量がおさえられたクラシックが流れているが、二人の間にある沈黙をなだめてはくれなかった。
居心地の悪さをごまかすようにアイスティーに口をつける。だがそんなのはよくて数分しか持たない。
「栞はさ、どうして俺がわざわざ合鍵は会って返すって言ったと思う?」
海が動きをみせてくれたのは良かったが、問われた内容はどうにも答えにくいものだった。
「え、えっと」
よりを戻そうと言われるとは思っていなかった。
謝られるとも思っていなかった。
それよりは不満や恨み言をぶつけられるのではないかと思っていた。しかしそれを当の本人に伝えるのは気が引ける。
「区切りを、つけるため?」
迷いながらも出した返答を聞いた海は感情の読めない笑みを浮かべた。
五年の間、一度も見たことがない顔だった。
「区切り、区切りね。……まあ、間違いでもないかな」
「……ごめん」
耐えられなくて謝罪がこぼれた。これまで海にしてきた全てに対する罪悪感から出た言葉だった。
「それは何についての謝罪?」
頭を下げた栞を見て海は顔をしかめている。
「何って……」
全てに対する謝罪だ。
一歩的に別れを告げて追い出して、通話は無視してメッセージだけでやり取りをして、話し合いも拒否して、ろくに説明もしなかった。
けれどそれ以前から、付き合っていた間の自分の行動についてもだ。
連絡はいつも海からで、栞から連絡することはなかった。
出かける時も何も提案せずについていくだけだった。ずっと栞はそうだった。
相手からボールが投げられない限り自分からは何も行動をしない、主体性のない関わり方をしていた。
けれど一番謝罪すべきが何かというならば、ずっと彼のことを好きではないままに付き合い続けたことだろう。
ひどすぎて、口には出せないけれど。
「俺は、栞が俺のことをそんなに好きじゃないって知ってたよ」
言葉を探している内に俯いていた顔をばっと持ち上げる。栞を見つめる海の目に怒りの感情は存在していなかった。
凪いだ色だけがそこにはのっていた。
「じゃあ、なんで」
「俺は栞のことを好きだったから」
罪悪感で胸が潰れそうになった。あまりにも、今更すぎるけれど。
「だいたい、最初からそうだっただろ。栞は別に俺のことを好きだったから付き合い始めたわけじゃない。もしも俺より先に別のやつからアプローチかけられてたらそいつと付き合ったんじゃないか? それくらい分かってたよ。結構一緒にいたし嫌われてたとまでは思ってない。というか思いたくないけどて……単なる顔見知りのことだって別に嫌いではないよな」
責めるような言い方をされているわけではない。けれど事実がただ羅列されたその言葉は、栞の胸を強く抉っていった。
「今更、本当はどう思ってたのか聞いたりはしないから安心しろって」
やっすい歌の歌詞みたいだなと海は笑う。
「最後に文句を言ってやろうとか思って会おうって言ったわけじゃないのに、駄目だな」
重いため息をつくと、彼は座っていた椅子の背もたれに深くよりかかった。
「ごめん、ごめん、ごめんなさい」
少し疲れたような顔を見たら、また口から謝罪がこぼれた。
最初の自然すぎる態度は、栞が委縮しないようにわざとそう振舞っていたのだ。
「謝ってほしいから会いたかったわけでもないって」
力なく苦笑する顔のどこにも怒りは見当たらなくて、栞はそれが逆に苦しい。いっそ罵られた方がましだった。
――この人は、ずっと栞に優しかった。
今更ながらそれに気づく。五年も一緒にいたのに喧嘩をしたこともない。喧嘩もできないような関係性に栞がしてしまっていた。けれど海はそれを責めない。そんな風に当時は見逃していたことが、山ほどある。
例えば、栞が自分の意見を口にしないのを分かっていながらも海は毎回「栞は?」と聞いてくれていた。
栞はどうしたい? と意思を尊重してくれていた。面倒がって諦めてもいいはずなのに、いつも聞いてくれた。
例えば、家族の話を聞かないでいてくれた。当たり前の会話を当たり前に返せなかった栞を彼はただ受け入れてくれていた。
この人は、ずっと栞のことを好きでいてくれた。
それなのにどうしてだろう、と思う。
どうして自分はこの人に、恋ができなかったのだろう。
この人を愛せたのならきっと栞は幸せになれた。どうして――けれどこの気持ちが一番海に対して失礼な考えだ。
「最後に、顔が見たかっただけなんだ」
そう言った海は、栞が知っている中でも一等優しい顔をしていた。
「決めてたんだ」
「……何を?」
「別れようって栞に言われたら潔く応じるってずっと前から決めてた」
叫び出したいくらいの気持ちを喉でぐっと留めた。
どうして、栞は海を愛せなかったのだろう。
どうして、海は栞を好きになってくれたのだろう。
あらゆるどうしてが頭の中で浮かんでは消えていった。
「みっともないって分かっていても、俺からは別れを切り出せなかったから、それだけは絶対守ろうと思ってた」
「みっともなくなんてない」
唸るような声が出た。顔に力が入っていたせいだろう。海は驚いたのかほんの少し目を見開く。
「……まあ、実際は急すぎて潔くなんてできなかったけどな」
「それは……ごめん」
最終的には『分かった』と引いた海だったけれど、その前は何度も話し合おうと連絡をくれていた。
「あと、それだけじゃ、なくて、色々、海の優しさをないがしろにしてごめんなさ、」
「栞に優しくできたのは、多分、栞が俺のことをそんなに好きじゃないって分かってたからだから謝られすぎると俺も困る」
想像していなかった返事に驚いたが、言われれば変に納得してしまった。
きっとお互いの感情が釣り合っていたのなら、もっと違った関係性になっていただろう。
二人の間にはいつだって不思議な遠慮が横たわっていた。
「あの日どうしてあそこまで栞が怒ったのか、正直今でも俺には理由が分からない。趣味に口出したのは悪かったなって思うけど、激昂するまでのことかよって釈然としなかった。でもそれが分からないから駄目だったんだろうなとは思ってる」
――子どもが読む本でしょ、それ。
海から投げかけられた言葉はまだ明確に栞の中に残っている。
「馬鹿にされたって、思ったの」
それと同時に栞の頭の中では昔あの人に言われた「そんなもの読んで何になるの」という言葉が鳴っていた。だから余計に苛烈な拒絶反応が出たのだろう。
「いやそんなこと思って、ないって、言いたい、けど。実際は……どこかでそんな気持ちも、あったのかもな。馬鹿にしてるってほどじゃないけど、ああいう本を俺は読まないし、ああいうのは子どもと、一部の好きなやつが読むもんだって考えて……た、だけじゃなくて、少しの八つ当たりでもあったんだ、多分」
「え?」
「そこも好きなとこだったけど、栞って怒らないだろ? だから、怒らせたかったのかもしれない。いたずらして振り向いてもらおうとする子どもみたいな真似で情けないよな。感情が釣り合っていないことに苛立ってた部分がやっぱりどこかであって、いっそ嫌われたいとか、魔が差して、それで、それで本当にこうなって、後悔して、馬鹿だなって自分でも思うよ」
怒るとか、嫌うとか、それはとてもエネルギーのいることだ。その瞬間、人はとても強く相手に自分をぶつける。
「……………………ごめん」
他になんて言えばいいのかもう分からなかった。
「だから謝ってほしいわけじゃないんだって」
「ごめ、……うん」
「栞だけが悪いわけじゃない、俺だって結局何もしなかった。びびってないで聞けば良かったんだ。ちゃんと話せば良かった。どうなるとしても自分の思ってることくらい伝えるべきだったんだ」
「私もずっと、海に甘えてた、だから……」
海といるのは、楽だった。
聞かれたくないことを聞いてこないというのは、言いたくないことがある人間にとってはとてもありがたいことだった。
それに自分を好いてくれる誰かという存在は栞にとって蜃気楼のようなものだったから、いつまでも消えて無くならずに海が隣にいてくれたことは、ずっと怖く、ずっと不思議で。
そして、ずっと。
「――ありがとう」
深く、頭を下げた。こんなことで貰った気持ちを返せるとは思っていないけれど、精一杯の感謝をそこに込めた。
「海が、一緒にいてくれたから、救われてた部分が、あったと思う」
「…………そう」
静かにそれだけこぼした海は、テーブルの上に置かれたままになっていた合鍵に手を伸ばした。
帰る前にどちらが支払いをするか一悶着あったが、押しの弱い栞は結局負けて最後の支払いは海が済ませた。
鈴の音を鳴らして扉が開くと、むわっとした外の熱気が二人を包む。
「あっついな」
暑さにへきえきしたようにぼやきながら、外に出た瞬間に流れた汗を海は手でぬぐう。
「ありがとう」
「ああ、いいってあれくらい」
もう夕方なのに、まだ太陽は沈まず空で存在を主張している。
夏の日差しは本当に強く眩しい。直視すれば目が焼かれてしまいそうだ。
初めて会った時の姿を思い出そうとすると、今よりも少しだけ幼さのある海が脳裏に浮かんだ。
二十歳と二十五歳なんてそうそう変わらないと思っていたけれど、十代の五年間がとても長いように、二十代の五年間だって軽いものではない。
「ありがとう」
「――どういたしまして」
繰り返された言葉から何かを察したのか、雑踏に目を向けていた海がこちらに向き直る。
「元気でいてくれたら嬉しい」
「うん」
「結婚式があっても呼ばないでね」
「当たり前だろ、栞だって呼ぶなよ」
一瞬、ためらった。わざわざこんなことを伝えなくてもいいのではないかと思った。でも栞は、残りの時間だけでもこの人には正直でありたかった。どう受け取られようとも伝えるべきだと思った。
「私は、多分、誰のことも好きになれないんだと思う。だから結婚とか、」
「……は?」
きょとん。と漫画に描いてある効果音がついていそうな驚き方だった。
「え?」
想像していた反応のどれとも違っていたので、その驚きの意味を判断しかねた。
てっきり、重く受け止められるか、理解できないといった反応を返されるものだと思っていたのだ。
「いや誰のこともって、そんなことはないだろ」
「そんなこと、あるよ」
「そんなことないって……あー、でも俺が言っても意味ないのか」
海の言い様には迷いがなくて、何かを確信しているようだった。
「どういうこと?」
「さあ? でもその内気づくんじゃない?」
悪だくみでもしているような笑いから、嫌な感じはしなかった。
「やさしくないね」
「もう彼女じゃないからな」
ひらりと手を振った海は、そのまま栞の前から去っていく。
さよならという言葉は不思議とどちらの口からも一度も出なかった。
駅のホームで電車を待っている間、数分の時間を潰すためだけにネットで興味のないニュースを眺めていると、誰かからメッセージが届いたことを知らせる音がてぃろんと鳴った。
表示されたポップアップに目を向けると、送り主はつい先程別れたばかりの海からだった。
『昔、海は間違ってないよって言ってくれてありがとう』
彼から届いた最後の言葉に返信はせず、栞はホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。
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