通勤時間帯での奇妙な追いかけっこ

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「まずいまずいまずい!!」  よれたスーツのまま家を飛び出し、近道にと普段通らない墓地とか潰れた工場が立ち並ぶ人通りの少ない裏道を走っていたら、横合いの細道から女が飛び出してきた。 「うお!?」 「助けて! 不審な男に追われているの!!」  胸に飛び込んできのは、絵画から抜け出てきたような黒髪で白いワンピースの美しい女性だった。  濡れた黒曜石じみた瞳が僕を見上げてくる。  勿論、次の電車に乗り遅れたら会社の始業時間に間に合わないし、鬼の上司からサービス残業を命じられることは間違いない。  人生にはタイミングというものがある。  残念だけど、ここは穏便にお引き取り願わなくてはならない。 「悪いけど僕急いでて」 「お願い……」  うるうると上目遣いで見上げられてしまった。  会社員である前に、僕こと土屋太一(つちやたいち)/26歳も男だ。  困っているお嬢さんが目の前にいて、なんだかわからないけど助けてくれと言っている。  ここで引き下がっては男が廃るし、彼女なんて一生できないだろう(下心)。  さあ、僕よ……。  会社と謎の女性どっちをとる!? 「承知しましたお嬢さん。それではお手をどうぞ」  ささっと一度前髪を整えて、僕が執事のように手を差し伸べたところで、細路地の向こうからガ鳴り声が。 「まぁてええええ!」 「!? き、きたわ!! 逃げなくちゃ!!」  彼女は、おびえた表情を浮かべ、僕の手を取らずに、すぐさま走り出した。 「お、お嬢さん? 足速っ!? まって!!」  彼女の背を追いながら細道を振り返ると、ガラの悪そうな黒いスーツに、サングラスをかけたガタイの良いいかにもな男が。  なるほど、お嬢さんはあいつに追われているわけだ。  ここで僕の腕っぷしが強ければ彼を撃退し、お嬢さんとの恋を始めることもできるのだろう。  だが、僕は普通のサラリーマンだ。  学生の頃はずっと帰宅部で、運動で自慢できることと言えば毎日20キロ先の学校まで自転車通学していたことしかない。 「うおおおおおおお!!」  衰えても自転車通学でできた脚筋の力は健在のようだ。  僕はスーツのボタンをはずし、裾をはためかせ、革靴をカッパカッパさせて懸命にお嬢さんを追いかける。  ここが民家も人通りもほとんどない裏道でよかった! 「おらあああ! てめえなんだこの野郎!! あの女とグルか!?」  怒鳴り声がすぐ耳元で聞こえた。  いつのまにか、サングラスで黒スーツのあのヤ〇ザみたいな男が僕と並走していた。  馬鹿な、こいつ自転車通学で鍛えた僕の脚に……!?  男をよく見ると黒いサングラスにスーツ、そしてスキンヘッドだった。  ガタイの良さも相まって威圧感が凄まじいが、何故か僕を殴っては来ない。  あくまで彼女を捕まえることが狙いなのだろう。  ……なんという悪漢だ。  ならば僕が引くことはない! 「お、お前はあのお嬢さんとどんな関係だ!?」   僕は田舎の両親に恋人ができたと報告する為に走っている気がする!!   互いに全力疾走で、前方50メートル先の絵画から抜け出したような白いワンピースの裾をはためかせる彼女を追いかけている状況。  僕はわかるが、このハゲ男が彼女を追いかけている理由がわからない。  彼はたまに太陽の光をスキンヘッドで反射させながら懸命に両手足を上げて、息を切らせながら怒鳴った。 「あの女は俺の財布をスリやがったんだ!! 20万も入ってんだぜ? 捕まえてサツに突き出してやるんだよちくしょお!!」 「はっはっは! 間抜けだなおじさん……ん? あれ!? 僕の財布もないぞ!?」  ポケットを探ると入っていたはずの財布がなくなっていた。  ま、まさかあの女!?  前方を走っていた彼女がちらりと振り返って、走りながら笑った。 「おほほほ! スラれる方が悪いのよ!!」  高笑いを響かせながら、腕を上げて振る彼女の手には僕と、おそらくヤ〇ザさんの財布が掲げられていた。  女は更に加速して僕たちを引き離そうとする。  なるほど、人は見かけによらないって……いやいや何を感心しているんだ僕! 財布が!? 「悪いのは盗ったほうだろ!! まてぇッ!! 僕のトキメキと、通勤時間と、この人と僕の財布を返せぇええええ!!」  千年の恋も冷めるとはまさにこのこと。  あと少しで僕は窃盗女を実家の両親に恋人として紹介するところだった! 「てめぇ、悪い奴じゃなかったんだな……!!」 「あんたこそな!」 「へへ」  スリ女を追いかけながら、僕とヤ〇ザさんの間に奇妙な友情が生まれようとしていた。 
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