そして街は色づき始めた

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 実績もない。伝手もない。麗しい見た目もなければ、巧みな話術もない。  そんな記者くずれの青年にできることは、ただ足を使うこと。  一秒でも長く現場となり得る場所に留まり、シャッターを切る一瞬を逃さない。  そうしてやっと手に入れた写真は、持ち込んだ新聞社で大きく評価され一面を飾ったものの、それ以上の何かを彼にもたらすことはなかった。  怪盗を讃えるような彼の言葉は退屈に喘ぐ人々の心を躍らせたが、その倫理観の無さからすぐに批判の嵐に見舞われた。  そのうえ、たった一度の邂逅以来、ちっとも怪盗に遭遇することができない。偶然、運が良かっただけ、一発屋。次がない限り、彼はその罵りを退けることができない。  何かはわからない。けれど、あの怪盗は何らかの信念を持って動いている。それを知ることが怪盗に近付くための唯一の手段であり、彼にとっての希望だった。  警察でさえも、怪盗の真意は掴めていない。神出鬼没の怪盗を前にできることは闇雲に警備対象を増やす人海戦術しかなく、たった一人で怪盗を追う青年にはそれさえ叶わない。  費用対効果の悪さから、新聞社は自らのコマを現場に送り出さない。こんなチャンスは滅多にないというのに、青年は何も成し遂げることができずに悶々とした日々を送っていた。  だというのに、怪盗が目の前にいるのはどういうことだろうか。怪盗は教会の屋根に腰掛け、青年を見下ろしている。月のない夜にその姿はほとんど影のようにしか捉えられなかったが、彼が指差しているのは青年が手に持つカメラだった。  夢中になってシャッターを切ったあの日、その姿を捉えていたのは青年だけではなかったらしい。 「君が、あの記事を書いた酔狂な人間かな?」 「はい……」  青年は自らの頬をつねりながら頷いた。  怪盗が言うには、彼がこの教会の敷地内を通りがかったのは偶然であり、青年の勘は今日も外れていた。今しがた仕事を終わらせてきたのだと、怪盗は盗んだばかりの獲物をちらつかせた。螺鈿細工の髪飾りは、ほんの小さな星の光も集めて七色に輝いた。 「この街は、私をただの泥棒で居させてくれないようだ」  怪盗の芝居がかった物言いに、青年はうっとりと目を細めた。 「そうですね。この街の人々はきっと貴方を待っていた」 「そうかな。それは君だけではないかい?」 「いいえ。違います。  貴方も見たでしょう?  僕はあれほど生き生きとした警部の顔を見たことがありません。彼もまた、貴方に魅せられた一人です」  怪盗は青年の言葉に首を振った。 「悪い気はしないのだがね、私には私の目的があるのだよ。過大評価は足枷にしかならない。気まぐれに怪盗を気取ってみたら、とんでもない狂犬を呼び起こしてしまった。彼のしつこさにはうんざりしている」  肩を竦めた怪盗に、青年は同情に似た眼差しを向けた。 「貴方には責任があります。僕らに色鮮やかな夢を見せてしまった責任が」 「ずいぶんな暴論だ」 「僕は、貴方のことをもっと知りたい。貴方の望むものを差し出します。  だから、もっと夢を見せてください」 「本当に、この街にはおかしな連中しかいないようだな」  怪盗が吐露した本音は、青年にとっては賛辞になっていた。 「私が君に望むものは何もない」 「僕は貴方が真に望むものは知りません。けれど、それに近付くための方法は知っています」  青年は怪盗の獲物を指差し、にっこりと笑った。 「方法とは?」 「この街の人々は刺激に飢えている。  あなたが怪盗を演じることで、この街には今まで以上に多くの美術品が訪れるでしょう。金と暇を持て余した愚者が、貴方をおびき寄せようとするのです。その中から、貴方は貴方の望むものだけを盗み取ればいい。  僕にはその手助けをすることができる。記事を起こし、貴方の存在を世に知らしめるのです。必要であれば、貴方が欲しているものを示唆することもできる」 「君は私を追い、写真家として、記者として成功するという筋書きか」 「美しい共犯関係だと思いませんか?」  狂気に満ちた青年の提案に、怪盗は興味を示した。  青年の読み通り、怪盗は特定の獲物だけを追いかけている。高価なものも、似たようなものも怪盗にとっては意味を持たない。  だからきっと、怪盗はいずれこの街を出て行く。  そんなことはあってはならない。 「この街をあなたの劇場に変えませんか?」    そして、この街は色づき始めた。
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