そして街は色づき始めた

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「待て! この泥棒!」  美術品でさえも眠りについた深夜、ガラス張りの渡り廊下に怒声が響いた。  暗闇の中、長い手足をしならせて走る人影を、警部と呼ばれた大男が追いかける。年の頃は三十代、瞬発力は若手に劣るものの、持久力は負けていない。誰よりも速く強く、獲物に喰らいつこうとしている。  双方の距離は、縮まりそうで縮まらない。もどかしさの中で、警部の部下たちは遥か後方、声しか聞こえない。  クソ、こんなに情けない奴らだったとは。  警部は舌打ちをし、唯でさえ勇ましい顔を顰めた。  平和でのどかな街が警察の精鋭たちを鈍らせた。狩るものがいなければ、ライオンだって猫になる。たった一人、獲物のいない世界で爪を研ぎ続けたのが警部だった。  こんなことを考えてはいけないのは百も承知だ。  けれども、彼は辟易していた。このつまらない世の中に。  管内で起こる事件は何もかも、彼の予想の範囲をはみ出さない。犯行も、動機も、信念も。  閉塞感に苛まされていた。それを、目の前の人物がぶち壊そうとしている。  誰にも悟られてはいけないが、高揚感が体中に満ちている。彼を突き動かしているのは、正義感ではなかった。 「泥棒ではありません。私は怪盗ですよ。そう呼んだのは、誰だか知りませんけどね」  人影は、怪盗は行き止まりで右に曲がる直前、くるりと体を翻した。  黒いベネチアンマスクをしているため、口元以外相貌はわからない。見えるのは楽し気に弧を描く薄い唇だけだ。全身を真っ黒な衣装で固めているため、姿形ははっきり掴めない。  小馬鹿にした怪盗の動きに激昂し、警部は力任せに地を蹴った。  伸ばした手が空を切る。後先など考えていなかった巨体は壁に衝突し、立ち上がることができないほどに脳が揺れた。眩暈と闘いながら怪盗を仰ぎ見ると、相手は月光を背に恭しく両手を広げた。 「トレンチコートに中折れ帽という型にはまったあなたに相応しくあるならば、私は暗闇を纏うマントをなびかせねばなりませんね。シルクハットも必要かな。  けれど、予告状は勘弁願いましょうか。あのような非合理的なものは好みません。わざわざ捕まるリスクを高めるようなことをする必要がないでしょう?」  怪盗の科白(セリフ)は明らかに矛盾していた。こうして無駄口を叩くこと自体がリスクそのものだ。  少なくとも今のやり取りで、性別は特定された。その声の低さ、月光を反射して淡く浮かび上がるほっそりとした肢体は男性のものだ。  のろまな部下たちの声が近付き、怪盗はふたたび警部に背を向けた。  なんとか平衡感覚を取り戻した警部が立ち上がり、その後を追う。  非常階段を駆け上る。窓のない空間に二つの足音が響いた。  本来は施錠されているはずの扉を、怪盗はいとも簡単に開けていく。  そもそも電気系統をやられている。一部の部下に命じたものの照明は一向に点く気配がなく、防犯システムは稼働していない。  相手がどのような手段を用いて視界を確保しているのかはわからないが、警部は非常灯の明かりだけを頼りに怪盗を追った。どうしても、三階、四階と階を増すごとに距離が開いていく。  執念だけで追いすがるには、限界があった。 「私の目的は盗みそのものを楽しむことではありませんのでね。早々に失礼します」  屋上に続く鉄扉を開ける瞬間、怪盗は手にした獲物を掲げた。差し込んだ月明りが輪郭を浮かび上がらせる。  それは警察が重点的に警備していた“奇跡の黒真珠”ではなく、無名画家のデッサンだった。金銭的価値は比べるまでもない。 「そんなものを盗んで何になる」 「私は私が欲しいものを盗むだけ。世間様が付けた値段になど興味はない。つまらないコソ泥ですよ。興味など、持たないでいただきたい」  必要最低限の隙間に身を滑り込ませ、怪盗は扉の向こうへ消えた。  やっとたどり着いた扉は、固く閉ざされいて警部の馬鹿力を以てしても開かなかった。どうやら向こう側から細工をしたらしい。  何度も扉に体当たりをしているとコンコンと軽いノック音が聞こえ、警部は冷たい鉄に耳を押し付けた。 「体に障りますからお止めなさい」 「うるさい。そこで待っていろ。すぐにそっちに行く」 「待てと言われて待つのは従順な飼い犬だけですよ。ああ、あなたもそうでしたね。警察という組織に飼われた従順な犬だ」  落ち着かせようとしたはずなのに、怪盗は低く意地の悪い声で警部を煽った。案の定、警部は扉を靴底で蹴った。バンという強い衝撃の後に、じんと振動が響く。  先ほどは意に介していない素振りだったけれど、怪盗は獲物を低く見られたことに腹を立てたのだろうか。  警部のその憶測を嘲笑うように、怪盗は飄々とした調子で語り掛けた。 「あなたのように情熱的な方には、できることならもう二度とお会いしたくはないですね」 「いいや。オレは必ずお前を捕まえる。間違いなく、もう一度顔を突き合わすことになるはずだ」 「お断りです」  その言葉を最後に、扉の向こうは夜の静寂を取り戻した。  こちら側だけが騒々しい。警部は上がってこようとする部下たちを叱責し、扉に背を向けて座り込んだ。  忘れないうちに刻み込む。怪盗の声、口調、体格、指先、口元。この腹の底から込み上げてくる悦びを。
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