どこへ、何処へ

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 笛が鳴った。  だから、走った。一人で、走り出した。  それだけのことだ。   また、笛が鳴った。はるか後方からその音は、聞こえる。 ピーッとも、ヒュルヒュルとも、ひゅるりひゅるりとも聞こえてくるようなその音。 オレにはカンケーねーよ、とオレは達観している。 ピーッ、ヒュルヒュル、ひゅるりひゅるり……笛の音は、オレでなく後方集団のランナーどもの尻に火を点けるため鳴らされたものだ。 追いかけろ、追い詰めろ。奴らの使命はそんなとこ。 ターゲットはオレ――追いかけろ、追い詰めろ、追い抜いてしまえ。 使命が果たされたならば、奴らにはご褒美が待っている。 走りには自信のあるオレだが、油断はできない。 奴らに追いつかれてはならないし、それだけでなく、オレ自身も、実は追いかけているのだ。 誰を? それはオレ自身にもわからない。 判らないまま走っているが、追いつかれもせず、追い詰められもせず、そして、追いかけなければならない。 それがオレの使命だ。オレにもご褒美が待っている。いや、待っている、らしい。 ……どれだけ走ったのだろう。 オレは始めて、振り返った。今まではそのヒマも惜しく、1ミリとも首の向きを変えていなかった。 その1ミリの時間も惜しまず走れ、とお咎めをうけそうだが、神様でもスーパーマンでもないのだから、それくらいは大目に見てもらえるだろうと考えた。 だが、それがよろしくなかったのか。 タッタッタッと凄まじく勢いのある足音がしてきて、あっという間に、ひとりのにんげんがオレの横に並んだ。 あっちゃ~。オレは思わず嘆かずにいられなかった。追いつかれてしまったか。 すると、「気にするな」とタッタッタッの主は、やさしげな声をかけてきた。 「わたしは、あんたを追いかけているグループの一員ではない。ペースメーカーという役割のにんげんで、あんたを追う集団の走りぐあいをリードする役目を背負っていたが、あまりにも集団の奴らのスピードが遅いので、あばよと一人で走ってきた、そんなとこだ」 「そんなことをして、いいんですか?」 「あ?」 「だって、ペースメーカーなんでしょう?」 白髪の長身、顔は血色がよいが、皴もある。その風貌から、自分よりはけっこう年上だろうと踏んで、オレは敬語を使った。 それがお気に召したのか、タッタッタッの主は、相好を崩して、 「あの集団の若者たちは礼儀知らずで、初対面の自分を、おっさん呼ばわりをして憚らず、かったるいよ、もっとスピード上げて走ってよ、そんなリードじゃいつまでもターゲットのランナーに追いつけないよ、とふてぶてしく言ってのけるので。おまえらの実力に合わせて走ってやってんだろうが、とタンカを切って、それならご注文通りと全速力で走ってやった。案の定、付いてこれる奴はひとりもいない。それでもって、自分はこうして、あんたに追いつき、礼儀を弁えたあんたと話をしておるわけだ」 あ、そういうわけでしたか、とオレは納得した。 「それにしても、お見事ですね。ともあれ若さいっぱいの集団ランナーを置いてきぼりにしてきたというのに、息一つ切れてませんね」 カッハッハとタッタッタッの主は闊達な笑い方をして、またこたえる。 「自慢じゃないが、何回か前のオリンピックでは、マラソンの最終候補有力選手として注目されておった、というのはウソでも、補欠の補欠のそのまた補欠、くらいのポジションにはいた。まあ、遠い昔の話だがね」 「そ、それでも凄いですね」 本当に感心して、何度も頷くオレに、しかし、タッタッタッの主は、じゃあ先に行くよとあっさりスピードにターボを利かせて、まさしく先を行く。 「何しろ、わたしにも、ご褒美が待ってるからね」 うふふんと笑い顔になって、腕の振りを大きくして、タッタッタッの主は全く、タッタッタッと先へと走っていくのだった。 ……どれだけ、走ったのだろう。 不思議にノドも乾かないし、腹も空かないし、何といっても疲れない。 そのうち日も暮れて、月が昇る。ああ、お月さまって、やっぱり東の空から昇るんだな、おひさまとおんなじなんだな、とオレは初めてその摂理を教えられた子供のようにすなおなまなざしを虚空に向け、深呼吸を一度二度。 すると、お月さまからだって、油断してると、すぐ追いつかれるよ、ジンセイってそんなものだよと諭されているような気がした。 ホント、そうだ。そのとおりだ。 オレは自戒して、また脚力にターボを利かせて、走った。 だが、それでもいっこうに、追いつくべき先を走るにんげんの背中さえ見えては来ない。 ……どこまで、走るのだろう。 オレはさすがに心もとなくなってきた。 ノドも乾かない、腹も空かない、疲れない。この三つ巴の好条件らしきものに、オレはふと疑問を抱いた。 乾かない、空かない、疲れない、ということは、このままどこまでもどこまでも、オレは休みなく走り続けることになるのだろうか。 乾かない、空かない、疲れない、不満はない――調子よく走り続けているが、オレだって、にんげんなのだ。まだまだ若いと思っているけれども、不意に元気の箍が外れて、バタンと不甲斐なくも進路に倒れ込む。そんな憂き目に遭わないとも限らないではないか。 と、弱気になりかけたところで、これは救いであるのか。前方に一つの影が見えてきた。 あ、あ、あ、とオレは歓喜の声を上げ、足にターボをいっそう利かせる。もうツマ先から、鼠径部までにもと脚中に活力を漲らせるという勢いだ。 ツイに見えたか、その背中。 影は影であって、月あかりを受けての仄かな揺蕩いのような頼りなさではありそうだが、おれは、あ、あ、あ、と喜びの声をまた上げて、追って行く。追いかける。追いつく。 見る見る影は影でなくなって、確かな人体となって、眼に迫って来た。 そう、影は影でなくなった証拠に、あ、あ、あ、とオレの真似をするみたいな声を洩らし、ご苦労さん、と果たして言った。 「は?」 「いや、だから、ゴクローさん」 「ねぎらってくださるのですか」 「そりゃあ、まあ。あんたの奮闘ぶりには見当が付くからね」 「それは、どうも。しかし、どうして」 疑問をぶつけるオレに、 「あんたは、私自身だからだ」と影でない確かな人体はこたえた。 「いや、禅問答などとシャレ込むつもりなどない。それは本当のことだ。なぜならね、この私も、先を行く、先を走る、何処の誰とも知らぬ御方の背中を追って走り続けてきたわけだからね」 「はあ」オレは、思わず頷いていた。 「あんたは、でも、運がいいよ。なぜなら、私を追いかけ、そして、こうして、私に追いついたんだからな」 「はあ」 また頷くことしか出来ないオレを、影でない確かな人体は少し笑って、 「じゃ、そろそろご褒美を差し上げようかな」と走りを止めて、ゆっくり歩きとなった。 影でない確かな人体は、ヒト息に言い、じゃあな、と声を洩らして、スッと消える、消えた、消えて行く。 いや、消えてなどいない。影でない確かな人体は、からだ丸ごと、スッスッとオレに近づいたかと思うと、そのままオレと合体してしまった。 こ、これが、ご褒美というやつなのか。戸惑うオレに、影でない確かな人体は、確かに言った。 「これで、あんたは、二人分の走りの活力を持ったことになる。ターボ2倍というわけだ。私はあんたで、あんたは私だ」 ……ご褒美をもらったオレの走りっぷりは、我ながら惚れ惚れするような勢いに満たされた。その脚力のターボときたら半端ない。 何処までも走る、走る、走る。 それでも、やはり、やっぱり、ノドも乾かない、腹も空かない、疲れない。 お月さまが沈み、おひさまが昇って来ても、それはおんなじことで、オレは、だから、やっぱり、やはり、何処までも走る、走る、走る。 ……それでも、そのうち、オレはまた、心もとなくなってきた。 これほど走っているのに、先を走っているはずのランナー――影でない確かな人体の言っていた、〝何処の誰とも知らぬ御方〟の背中は見えて来ない。 「それでいいんだ」 ふっと体の奥底から、声が響いた。合体した影でない確かな人体からのものだった。 「これでいい、のですか?」 オレは恐る恐ると小声で訊いた。そうしないと、体の箍が何だか一気に緩んで、合体が合体でなくなって、ばらばらになってしまうような恐れを感じたからだ。 「そう、これでいい。それでいい。だから、もう走るのはやめて、歩きなさい。ゆっくりゆっくり歩くんだ。そう、それでいい、それでいい。そうするがいい」 「でも、それでいいのですか? だって、一向に見えてきませんよ。あなたが、追っかけのターゲットとしていた〝何処の誰とも知らぬ御方〟のその背中など。ゆっくり歩けば、なおのこと遠ざかって行くばかりなのではありませんか」 オレの体のどこかが、ふんと音を立てた。それは、合体した影でない確かな人体というものから発せられるものだとオレには分かった。 「ふん、ふん。あんたの言っていることはわからぬでもないが、ふっと見方を、かんがえを変えてみる。それも、大事なことだ。いいから、言うとおりにしなさい」 オレはどうしたものかと迷ったが、従うしかなかった。というか、こちらの意思に関係なく、足は走るのを止めて、ゆっくり歩きを始めている。 合体した影でない確かな人体の仕業だった。何しろ合体しているのだから、そんなことも朝飯前なのだろう。 ……歩く。歩く。何処までも歩く、歩く、歩く。 それでも、やはり、やっぱり、ノドも乾かない、腹も空かない、疲れない。 お月さまが沈み、おひさまが昇って来ても、それはおんなじことで、オレは、だから、やっぱり、やはり、何処までも歩く、歩く、歩く。 これでいいんだ、これでこそいいのだ。歩けば歩くほど、オレの体のどこからか、声が湧く。それは励ましの声とも諭しの声とも聞こえたが、オレはすなおにやはり、やっぱり、歩く、歩く、歩く。 だが、そのうち、ヤッター!と幾つもの快哉の声が束になって、オレを襲った。 あ、あ、あ。オレは、嘆いた。 オレを追っかけていたあの若者の集団ランナーが、オレに追いついたのだった。 「ヤッタゼ、ヤッタゼ。とうとう、おれらは追いついた。ご褒美がもらえるぞ、もらえるぞ、いや、しかし、おれたちがもらえるご褒美って何だろうな」 集団ランナーの若者達は口々に叫ぶほどにも言い、オレを追い越すたび、チョンチョンとオレの肩先を叩いたりさえする、それもシャクにさわる。 こうなれば、歩いてばかりもいられない。また再びターボをいっぱいに聞かせた走り方をして、あの若者たちに追いつき、追い越してやろう、とオレは奮起の思いに駆られた。 「そうするかい?」 オレの心の裡を見抜いているのか、いや、合体しているのだから見抜くのも道理、今や合体し尽くした影でない確かな人体は、「やってみようか」と若々しくも嬉しげな声を発した。 「そうしましょう、そうしましょう」 歓び勇んで同意したオレは、ゆっくり歩きを止めて、猛然と走り出した。 若者の集団ランナーどもになどすぐに追いつき、オレはさっきのお返しとばかりに、若者の一人一人の肩先をチョンチョンと触って叩いて、ザマミロと笑ってやった。 若者たちも負けていない。すぐさまオレをまた追いかけ、追いつき、追い抜こうとする。 「おれたちだって、負けるわけにはいかないんだ。だって、まだ、ご褒美の一つも貰っていないんだからな」 一人が言うと、そうだそうだと集団の声がヒト息にも揃う。 あ、この調子だと多勢に無勢ってやつもいいとこで、オレは負けてしまうのかと気弱になるのであったが、救いが来た。今や合体し尽くした影でない確かな人体からの応援だった。 「ご褒美ってのは、こうだよ」 今や合体し尽くした影でない確かな人体は、決然と言い放ち、そーれの掛け声とともに、 オレの体から、気合を送る。すると、若者の一人一人が、オレの体へと吸い込まれるようにして、合体していく。見る見るオレの体は十人以上の若者を呑み込んで膨れ上がった。 「これこそ、ご褒美だよ。これこそが、ご褒美ってもんだよ」 今や合体し尽くした影でない確かな人体は、厳かにもオレに言い聞かせ、 「さあ、この私に加えて、血気盛んな若者十人と合体したあんただ、もう怖いものなしだ。さあ、さあ、走れ、走れ」 とオレを煽るに煽った。 ……何処に行くのだろう、何処へと走るのだろう。 怖いものなしのオレは、ただ走る、走る、走る。 走りすぎて、もう何を追いかけているのか、わからなくなってしまうほどだ。 「教えてください」 オレは、今や合体し尽くした影でない確かな人体に向かって、懇願した。 「オレはいつまで、走るのですか。いつまで、追いかければいいのですか」 今や合体し尽くした影でない確かな人体は、再び厳かにも言った。 「そんなことを訊いてはいけない。あんたは、もうご褒美までもらってしまったではないか。もらった以上、走らなければならない、走り続けなければならない。それが使命だ、それが道理だ」 「つまりは、まだまだオレは、〝何処の誰とも知らぬ御方〟とやらの背中を追って、走り続けなければならないというわけなのですか」 息せき切って問いなおすオレだったが、こたえは、しかし、もう返って来ない。 来ないから、オレはやはり、やっぱり、走り続けるしかない。 ……どれだけ、日が暮れて、また、どれだけ陽が昇ったのだろう。 オレはまだ走っている、走り続けている。追っている。追いかけている。
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