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【side 羽賀井千早】
「駿介さん……いま帰ってきたんですか?」
バタン!と大きく閉められた玄関の音に気がつき、俺は溜め息まじりに帰ってきた人物を確認しに行った。
時刻はすでに午前0時を回っている。
人が用意した夕飯も食べずに日付が変わるまで飲んで帰ってきた男は、玄関先で倒れるように寝転がり、俺の方を目線だけ動かして見た。
「…………あれぇー。千早じゃん。なにお前、まぁだ起きてたの?」
「受験生なので。もう、本命まで時間ありませんし」
「あー。そうかぁ、大変だなぁ」
けらけら笑いながら、全然思ってなさそうに男は……加賀駿介はそう言った。
そのまま玄関で寝てしまいそうな駿介に「風邪引きますよ」と俺は声をかけてみたけど鼻で笑われた。
そして「千早」と名前を呼ばれる。
「……なんですか?」
「大学。私大に行かせる金はねぇからなぁー。どうしても行きたいなら、公立にしろ。無理なら奨学金借りて自分で返せ」
ーーお酒の匂いと、タバコの匂い。
それに赤くなった顔をこちらに向けながら、駿介は俺にそう釘を刺す。
受験直前になってもまだ言うか。
志望校なんて、とっくの昔に願書出したっつーの。
「大丈夫です。ちゃんと地元の公立しか受験しませんから」
「……ふぅん。……それでもし落ちたら、お前どうする気?」
駿介は、少し身体を起こしてこちらを見ながら聞いてきた。その目は、俺の大学受験失敗を望んでいる意地悪な目だ。
「ーーご心配には及びません。ちゃんと合格しますから」
俺がそういうと駿介は、「くくっ」と笑ってそのままその場で酔っ払ったまま眠りについた。
俺はそんな駿介のどうしようもない姿を見下ろしながら、玄関の鍵を閉めた。
仮にも大学受験直前の人間がいるというのにそんなことお構い無しだな。少しは自重しようとは思わないものか。
別に、独身の駿介に、俺の都合で行動を制限させる権限など決してないのだけど。
でもーー。
「だから……風邪引くって」
駿介を抱えて寝室まで運ぶのは重労働だ。だがしかし、こんなところで寝かせるわけにもいかない。
俺は、仕方なく駿介の腕を持ち上げ肩に回した。
「…………んー?」
「とりあえず部屋入ってください。暖房効いてますから」
「あー」
なんとか意識が戻ってきたのか、駿介をリビングまで運んでソファーにドサッと置いた。
同時にまた、意識が切れたように駿介は眠りにつく。
「……どうしようもない大人だな」
寝室から毛布を持ってきて、かけてやった。ひとまず大丈夫だろう、着替えやなんやらは知ったことではない。
一通りのことを終えて、俺は駿介の眠るソファーの前に座った。
「……駿介」
小さく名前を呼ぶ。当然、反応はない。
駿介の、アルコールで赤くなった頬に俺は自分の甲で触れた。……あつい。でも、安心する。
ーー好きだ、と言ったらきっと困らせる。だったら出ていけと言われてしまうかも。
一緒に暮らしてもらえて、学費や生活費を出してもらって、俺はまだこの人に守られている。
いつか、離れなければいけない日が必ずくるのだから。その時がくるまで俺はまだ、駿介の前ではなにもできない子供でいたかった。
*****
俺は、羽賀井千早。高校3年生。
1月後半。高校生活も残り2ヶ月程になり、クラスメイトは皆、大学受験直前で結構な緊張感がある。
本命、あるいは滑り止めの私大を受ける奴は、早いともう試験が始まっているようで、ちらほらクラスでも欠席者が出始めた。まもなく2月になるけど、そしたら毎日のように皆、試験に繰り出すんだろう。
そんなことを考えていたら、担任が俺の席まで近づいてきた。
「羽賀井」
「……稲沢先生」
「お前、本当に本命一本でいくのか?まだギリギリ間に合うところもあるぞ?」
「……いいです。滑り止めの受験料まで払えないので」
担任の心配そうな気遣いに、俺はそう返すしかなかった。担任は苦そうな顔をしたがそれ以上なにも言えずただ「頑張れよ」と言い残していった。
ーーもし、両親が生きていたら、きっと保険としてあれもこれもといくつも受験させられただろうな。母さんは特に、心配性だったから。
俺は参考書を開きながらそんなありえないことを考えた。
今、一緒に住んでいる加賀駿介は母の実の弟だ。俺からしたら叔父さん、駿介からしたら俺は甥っ子にあたる。
駿介は母よりも9つ年が下の34歳。両親を不慮の事故で亡くしたとき、14歳だった俺を当時30歳だった駿介が引き取ってくれた。
俺はひとりっこで、父方の方は祖父母でさえほとんど付き合いがなく、また父もひとりっこだったので、他に身内もいなかった。
母方に祖父母はいたが、大人たちの話し合いの末、駿介が面倒をみるという結論になったらしい。俺は知らされていないが、きっと『大人の事情』というものがあったのだろう。
30歳独身で、自由気ままに生きていた男が、突然14歳の甥っ子の面倒を見ることになるとか、よく考えるとすごいことだよな。
俺はまだ子供心に、なるべくこの人の負担にならないように生きなくては、と思ってきた。
だってまだただの中学生である自分ができることなどなにもない。駿介に見限られてしまったら……俺の居場所は完全になくなってしまう、と、そういう怖さや不安も頭の中にはずっとあったのだ。
あれから4年。俺は18歳になった。『なにもできない子供』として駿介のそばにいられる時間は、あと少ししかない。
*****
「早く稼げるようになりたいな……」
「ーーなんだお前、進学諦めて就職すんのか?」
「!駿……っ」
急に耳元付近で声をかけられ、俺はバッと後ろ降り向いた。
そこには、全身黒い服で固めた駿介が立っている。
「び……びっくり、させないでください」
「俺が部屋に入ってきたことにくらい、気づけよ」
「……今日は、ずっと、家にいたんですか」
「まあなー。珍しく筆が乗っちゃって」
やっぱり俺、天才かも。
と、駿介は自信満々に言った。
駿介の職業は物書きだ。小説とか雑誌の記事とかネットのコラムとか……よく知らないがそういう仕事をしている。
ものすごく売れているわけではないらしく、「高校までは行かせてやるが、大学は公立以外なら自分で学費を出せ」というのが一緒に住み始めてからの駿介の口癖だった。
……つまりまあ、生活は余裕があるわけではないのだろう。
「高校までは出す」というのは、常日頃から母、つまり駿介の姉がそう言っていたかららしい。
でも、だからといって不便を強いられているわけではないが、俺を引き取らなければきっと駿介はもっといい暮らしが出来ていたとは思う。
よく作家仲間や仕事関係で飲みに行くのが趣味みたいだし、感だけど、女遊びもしてる。
でもどういうわけか、彼女とか、そういう特別な人間の存在を感じたことはこの4年、一度もなかった。
30前半の男が……、それで大丈夫なのか?と、余計なことを考えてしまうこともあったけど。
全部俺のせいだから、聞けなかった。
「じゃあお前が出ていってくれるのか?」と言われるのが怖かった。
俺はまだ、駿介という大人がいなければなにもできない子供だから。
「……じゃあ、仕事終わったの」
「おうよ、疲れたわ。ひとまず終わった」
「よ、良かったですね」
「お前は?試験、本命いつなの?」
駿介は、俺の机の上の教科書を持ち上げながら聞いてきた。
「……俺は、あと10日後です」
「ふうん。受かるの?」
「……そのために最後の追い込みをしています」
「最後の追い込み、ねぇ……」
駿介は教科書を机に戻すと腕を組みながら言った。
「なあ、千早」
「……はい?」
「大学、受からなかったらどうすんの?」
「…………嫌なこと言いますね。今のところ、模試では合格圏内なんですけど」
「模試は模試だろ。当日、なにが起きるかなんて誰にもわからない」
「……俺に受かってほしくないみたいな口ぶりですね」
「俺より高学歴になってほしくないだけだ」
駿介は、大学ではなく専門学校を卒業している。その間に小説の新人賞かなにかに応募して運よく担当がついたと、話してくれたことがあった。
俺は座っていた椅子ごと駿介の方へ向けた。
「大卒の方が、就職で幅が広がります。……でも万が一落ちたら、ちゃんと就職します」
「簡単に言うよなぁ。働いたこともないガキがさ」
「……アルバイトなら2年までしてました」
「学生バイトと就職を一緒にされてもな」
「駿介さんも……、企業に勤めたことはありませんよね」
「あーそれ職業差別よ?企業に勤めてたら偉いの?会社員や公務員ならすごいわけ?」
「…………」
……今日の駿介はめんどくさいな。
駿介はどうやら学歴コンプレックスがあるらしく、たまにこうやってよくわからないところで喧嘩腰になる。
俺、なにもそこまで言ってないんだけどな。
「お前の父親は立派だったなぁ。難関大学卒業で、大企業のエリート。そんな男がよく姉さんと結婚したよな」
「……駿介さん、父さんのこと、嫌いですよね」
「嫌いだね。あの人は出来すぎてて気持ち悪かった。なんで高卒でフリーターだった姉さんを選んだのかいまだにわからない」
息子である俺の前でも、駿介は父のことをいつも毛嫌いしていた。
……もう亡くなって4年経つというのに、いまだにこれだ。
母と父が結婚するとき、なにかあったのだろうか。そんな話は聞いたことないけど。
「……あの、すみません。そろそろ勉強に戻ってもいいですか?」
「今さらあがいたところでな」
「あがきます、最後まで」
俺がそういうと、駿介は「ふん」と言って部屋を出ていってしまった。
駿介にどんな態度を取られたとしても、今の俺に出来ることは、勉強することだけだ。
俺はノートに目線を落とした。
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