ストーカー

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 吊り革に捕まりながら、ふと斜め横の方を向いてみると、信じられないほど美しい後ろ姿の人物が立っていた。  その女も、僕と同じように吊り革に捕まり、電車に揺られながら、窓の外を見ているようだ。僕はあまりの衝撃に、しばらくその女の背中から目を離せなかった。  女が電車を降りたので、扉が閉まる直前に、思わず僕もホームへ足を踏み出していた。本来ならば、僕が降りる予定の駅はまだ少し先で、今日は大学の一限目の講義を受ける予定だったのだが、次の電車ではもう間に合わないだろう。  女は、駅の西口の方へ歩いていく。僕は少し距離をとって、彼女についていった。  女はヒールを履いていて、歩く姿も、誰もが見惚れるほど綺麗だ。背筋が一直線にピンッと伸び、控えめにお尻が突き出ていて、重心のぶれない見事な歩き方なのだが、気取っているようには見えず、それがごく自然な歩き方に見えるから不思議である。  女は改札を抜けて、駅の外にある広場を進んでいく。ちょうど広場の真ん中にある噴水の前で立ち止まると、噴水に体を向けたままで立ち止まった。  変に近づいたり、中途半端なところで止まったりすると不自然に思われるかもしれないので、駅を出たすぐ右手にあるコンビニに入って、雑誌を読むふりをしつつ女の様子を伺うことにした。  身長は、百七十センチほどはあるだろうか。腰の辺りまで伸びた長い黒髪は、艶やかで、サラサラで、見ているだけで上品ないい匂いを感じるほどしとやかだった。風が吹き、少しなびいている姿は、可憐だった。  少し華奢な肩幅も、僕の好みだった。怒り肩でもなで肩でもない、ちょうどいい角度で、外側へ向けやや下っている両肩は、絶妙なバランスである。  お尻もよい。大きすぎず、小さすぎず、適度にプリっと突き出ている。あれは、絶世の美尻と言ってよいだろう。  あんなに完璧な後ろ姿を持つ女を見たのは生まれて初めてで、まだ顔も拝んでいないのに、僕は彼女に一目惚れをしているようだ。もちろんのこと、僕は今、彼女を正面から見たいと強く思っている。あれだけ美しい背中であれば、顔も美しいに決まっている。あれほどの後ろ姿で顔がブスだったら、そんなの理不尽だ!  もう、大学なんかへは行っていられない、と思い、今日はどうにかしてあの女の顔を拝むんだ、と僕は決意した。女がどこへ行こうと、何をしようと、女の正体がなんであっても、僕は彼女を正面から見てやる。  多少怪しまれても構わないから彼女に近づこう、と思ってコンビニを出た時、女のところへ、男が近づいていった。  男は気さくな感じで女に何か話しかけたようで、女もそれに自然に応じている。どんな会話を交わしたかはわからないが、一目で、彼らが待ち合わせをしていたということはわかった。二人は、そのまま僕のいる方とは反対方向へ、並んで歩きだす。  男はガニ股で、猫背で、服装もダサい。男の方も後ろ姿しか確認できていないのだが、あれではきっと顔面も酷いありさまに違いない、と僕は決めつけていた。  二人は、どんな関係なのだろうか。カップルにしては、あまりに不釣り合いだし、兄弟にしては背中が似てなさすぎる。考えても、二人の関係に何も予想が立てられないまま、僕は少し距離をとって追いかける。  あ、手を繋ぎだした! だとしたら、やっぱりカップルなのか!  二人は、細い路地へ入っていく。僕も、彼らの後を追っていくと、そこは曲がり角のやたら多い路地だった。  一本道だが、右へ曲がり、左へ曲がり、また右へ曲がり、といった感じで、そのうちに方角がわからなくなった。二人はこんな人気のない路地で何をするつもりなのか、と不安になりながら、奥へと進む彼らを追い続ける。何本目かわからない角を右へ曲がると、行き止まりの壁が見え、その手前に女と男が向かい合って立ち止まっていた。僕は慌てて、曲がり角の死角へと身を隠した。まだ、二人の顔は見えなかった。 「ここなら、誰も来ないね」  男の声。汚い濁声だ。 「そうね」  女の声。想像した通りの、透き通った、可愛らしくもあり、綺麗でもある、魅力的な声だ。  そこからしばらく、声が聞こえなくなった。二人はもしや、こんな朝から、野外で、おっぱじめてしまったのかもしれない。おっぱじめるために、わざわざあの噴水の前で待ち合わせしていたのかもしれない。  一目惚れをした女が、不細工な男と行為を始めるなんていうのは、やはり残念だが、これはこれでラッキーな気もする。あれほど美人の行為を生で覗き見できる機会なんて、この先きっともう二度とないだろう。  角から顔を出して、二人の方をチラッと見てみると、やはり始まっているのか、二人は抱き合うように密着している。女が、男の腰に手を回しながら首すじにしゃぶりついているように見えるが、何やら様子がおかしかった。男の体がガタガタと震え出し、よく見ると、首すじからツーッと血が垂れている。  女が、男の首筋に噛みついている。あれは、血を吸っているのだ! 「吸血鬼だ!」  思わず、叫んでいた。  僕の声に、女が振り向く。ちょうど真上にあった太陽の反射で顔は確認できなかったが、女が僕のことを発見した、ということは確実だった。  殺される、逃げなければ。僕は反射的に身を翻して、来た道を猛烈なダッシュで引き返した。まさか、あのあまりにも美しい後ろ姿をもつ女が、僕が一目惚れをした女が、吸血鬼だったとは!  ショックで大粒の涙を流しながら、目の前が見えなくなりながら、僕は走って逃げる。  女はヒールを履いていたので、速くは走れないだろう。それに足は長いが、体は華奢なので、元々そこまで足は速くはないはず、そう予想したのだが、背後から、コツコツコツコツ、ととんでもない勢いの足音が聞こえてきた。  学生時代は陸上部のエースだったのかもしれない。それくらい足音からわかる移動速度は凄まじく、このままでは、この路地を抜ける前に追いつかれるかもしれない。やたら曲がり角の多い路地をくねとくねと引き返しながら、僕は、自分にまだ彼女の顔を見たいという願望が残っていることに気づいた。  さっきまでは、僕が彼女のことを追いかけていたが、今は、彼女が僕のことを追いかけている。あれほど美しい女に、ある意味僕はいま、猛烈なアプローチを受けている、ということになる。いま振り返れば、確実に女の顔を拝めるはずだった。ただ、もし本当に振り返れば、そんなことをしている間に追いつかれ、さっきの男のように血を吸われて絶命するのは、間違いないだろう。  死にたくない、死にたくない、死にたくない、顔を見たい、顔を見たい、顔をみたい、人生最大の葛藤だった。足音は、もうすぐ後ろにまで迫っている。あと少し走れば、このひと気のない路地を抜けられ、通行人に助けを求められるはずだった。  最後の曲がり角を曲がり終え、大通りへと通じる、路地の出口が見えた。女の気配は、手を伸ばせば捕まえられるんじゃないか、というほど、すぐ真後ろに迫っているようだ。  どうする? このまま走り続けるか、それとも、振り返って顔を見ながら、死ぬか。  久しぶりの全力疾走だからか、喉からひょー、ひょー、と変な音が鳴っていた。足ももう限界だったが、なんとか走り抜けられそうなくらいの体力は、辛うじて残っている。路地の出口までは、あと十メートルもないほどの距離で、大通りまでもう少しだ。  どうすればいいんだろう。逃げ切るべきか、振り返るべきか。  やっぱり見たい! 僕はそう思ってしまった。 「好きだー!」  そう叫びながら、死を覚悟し、僕は立ち止まって後ろを振り返った。  女は、やはり間近まで迫っていて、僕らは向かい合う格好になる。  そして僕は、その時初めて、女の顔を正面から見ることに成功した。肩を掴まれ、首すじに噛みつかれるまでの一瞬の間だったが、僕は確かに、女の顔を見た。  今まで味わったことのない感情が、心の奥から湧き上がってきた。これは噛まれた痛みからくる感情でも、死が間近に迫っているから起こる感情でもない。女の顔を見たことで、なんとも言えない感情に陥っているのだ。  他人のことを、ある一面見ただけで、全てわかったような気になってはいけなかったようだ。正面から見た女は、美人ではなく、どちらかといえば不細工よりの、どこにでもいるような、普通の見た目だった。  女に血を吸われながら、少しずつ身体が冷たくなっていくのが自分でもわかり、徐々に意識が遠ざかっていく。 「中の、下か」  激しい後悔の念に襲われながら、僕は小さく最後の言葉を呟いた。
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