陽春

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〈陽春④〉♡ 楽しい時間を過ごしたあと、美咲さんは研究室に戻る僕と一緒に帰ることになった。 「私、ちょっとお手洗いに行ってきますね」  いつものハグとキスを彼女の目の前ですることになるのかとドキドキしていた僕は、ほっとして彼女の背中を見送った。 ベッドに腰を下ろした瀬田さんを見ると、何だかにやにやしている。僕が軽く睨んでもお構いなしだ。いつの間にか美咲さんに言い含めておいたらしい。 「…なに」 「あいつの前でなんかしないよ」  そう言うと、笑って僕の手を引き寄せた。言い返す暇もないほど、僕はあっけなく彼に抱きすくめられていた。 「…人の気も知らないで」 「だって、邪魔されたくないだろ」  子どもみたいに無邪気な笑顔で、彼は僕にキスをした。 「…で、実際のところどうなんですか」  肩を並べて駅まで歩きながら、美咲さんが話しかけてきた。 「どうって…」 「兄の恋人なんですか」  すぐには答えられなかった。 気持ちはそのつもりでいる。そばにいたいのも本当だ。でも、家族にはっきり言っていいものかどうか、僕にはわからなかった。同性の僕は、彼に相応(ふさわ)しい恋人だと家族に思ってもらえるのだろうか。 『もう、泉に近づかないで』 先輩の母親の(さげす)むような目が僕を見ていた。 あの時は事情が違ったとは言え、相手の家族にはまったく理解してもらえなかった苦い記憶がある。瀬田さんと気持ちが通じ合っていても、家族の目にはどう映っているのか、全然自信が持てなかった。 「…そのつもりなんですけど。ちゃんとそうなる前に亘さんが入院することになってしまって」  慎重に切り出した僕に、美咲さんが笑った。 「ふふっ。兄の話はあなたのことばっかりですよ」 「え…」  恥ずかしくて頬が熱くなるのがわかった。 「樹、樹って。本当に嬉しそうに話すんですよ」 「そうですか…」 「…あの頃、兄はふさぎ込んでいてずっと不機嫌で、私たちは腫れ物に触るように接していました。それがあなたが来てくれたあの日から、笑顔を見せるようになったんです」  すっかり以前のようにとはいかなかったが、表情が柔らかくなり、自分の病気と向き合うようになったのだと言う。先が見えない恐怖から解放されたのかもしれない。 「両親も私も、皆あなたに感謝しています。今日は藤原さんに会えて、本当に嬉しかったです」 「よかった」  僕はほっとして美咲さんに微笑んだ。 僕の気持ちが届いて彼の心を救えたのなら、これほど嬉しいことはない。それが僕の願いだったのだから。 「でも、僕も彼に救われたんです。僕の寂しさをわかってくれたのは、亘さんが初めてでした」 「あなたにも兄が必要だったんですね」  美咲さんが優しくそう言ってくれたのも、僕を安堵させた。  入院して4ヶ月が経った。 クリスマスとお正月が過ぎて、寒さはまだ残るものの少しずつ春が近づいてきていた。 瀬田さんは新しい記憶がほとんど入らなくなり、入院した頃のこともあやふやになってきた。話をするそばから忘れていってしまう傾向も増えていった。 覚悟していたつもりだったが、少しずつ(さかのぼ)って彼の記憶から僕が消えていくのは、寂しいものがあった。それでも毎日会うたびに、瀬田さんは僕の名前を呼んでくれた。 「樹」 「こんにちは」 「久しぶりだな」 「そうですね。でも、昨日も会いましたよ」 「そうか。1日って長いんだな」  彼はそこでふっと微笑む。 昨日交わした会話を繰り返すのが、このところの日課になっていた。ため息が出そうになることもあるけど、いつも笑顔でいてくれる彼を見ると、愛おしくてたまらなくなる。 僕は手を伸ばして彼の髪を撫でた。 それに、僕と過ごしたあの夜のことを覚えていてくれれば、十分だと思った。 それでも、瀬田さんは時々起きることを忘れたみたいに、眠り続けることがあった。そんな時は僕はベッドの傍らで、彼が目を覚ますのをずっと待ち続けたりもした。 このまま眠りから覚めなかったら どうしよう 彼が身体的な苦痛を感じていないのだけが救いだった。そんな不安の中で僕を励ましてくれたのは、あの夜の彼の温もりだった。彼の手を握り、あの日の記憶を辿(たど)る。彼がどんなふうに僕を愛してくれたかを、ひとつ残らず思い出す。そこに(ひた)っている間は寂しさを忘れることが出来た。 「…樹」  そして、目が覚めた彼が微笑んで僕の名を呼ぶと、(こら)えきれずに抱きしめてキスをする。 穏やかな日もあればそんな日もあり、それを繰り返しながら僕たちは寄り添うことを()めなかった。
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