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〈陽春③〉♡
次の週末、早速外出許可を取って海に出かけた。
「地元じゃなくていいの?」
「欲を言ったらキリがないからな。あまり遠くまで行けないし」
彼が選んだのは東京の臨海地域だった。
「それに海は全部、どこかで繋がってるだろ」
湾内の波は穏やかで、家族連れやカップルがちらほら砂浜を歩いていた。風もないし散歩をするにはとてもいい陽気だった。
ただ、車椅子だと砂に車輪を取られてしまう。瀬田さんが僕の手を握った。
「歩いてみる」
「うん。気をつけて」
彼の両手を取って立ち上がらせた。1歩ずつゆっくり足を踏み出す彼を支えるように、僕は隣を歩いた。
思い通りにならない体を何とか宥めながら、瀬田さんはもどかしそうに歩いている。
少し休もうかと声をかけようとした時、彼がバランスを崩してよろけた。僕の腕の力では、長身の彼を到底支えきれなかった。僕はかろうじて尻もちをつき、瀬田さんは僕を押し潰さないように砂の上に倒れこんだ。
「樹、ごめん。大丈夫か」
「平気。亘さんがよけてくれたから」
「あー、情けないな…」
仰向けになってため息をついた彼の隣に、僕も寝転んだ。澄んだ秋の空が、目に優しい色で広がっている。
「でも、こうして空を見てるのもいいね」
手を繋ぐと、彼もぎゅっと握り返してきた。
「ほら、綺麗な色」
「…俺たち、海を見に来たんだよな」
「そうだった」
ふたりともくすくす笑いだした。
「…あのまま迷ってたら、おまえを抱けなかったな。自分の気持ちに正直になって、結果オーライってとこか」
瀬田さんはいたずらっ子みたいに笑った。
「でも、ふたりとも同じ気持ちだったんなら、もうちょっと早く手ぇ出しとけば良かった」
笑いながらも、本当に悔しそうに言うのが愛おしくて、僕は彼の頬にキスをした。
「僕は亘さんが、朝まで隣にいてくれただけで嬉しかった。あんなふうに抱きしめられるなんて、夢みたいで…」
彼のもう片方の手が僕の髪を優しく櫛いた。
「自信持っていい。おまえは今のままで十分可愛いよ。もし、俺がいなくなってもおまえのそばにいてくれるヤツはきっと現れる」
「そうかな…。また振り出しに戻るんだよ。ううん、今がこんなに幸せだったら、マイナスかもしれない」
瀬田さんの瞳は真剣だった。
「大丈夫だ、俺が保証する。おまえならそいつに会ったら、すぐにわかるはずだ。あの時みたいに甘えてみろ」
あの夜の自分を思い出して、体の奥が疼いた。
あれほどまで自分を解放して甘えられる相手に、僕はこの先、出会えるのだろうか。そりゃあ、可能性はゼロじゃないだろうけど…。
でも、次の瞬間に彼はいつもの笑顔に戻っていた。
「だからって安売りはするなよ。それに、俺が死んでからの…」
僕は彼の唇をキスで塞いでその先を遮った。
「…もう。今ふたりで幸せなのに、僕と亘さんの話をしようよ。先のことじゃなくて」
「わかったよ」
彼は苦笑いして、僕をぎゅっと抱きしめた。
体力が落ちてきた瀬田さんとは、もう体を重ねることは出来なかったけど、彼は別れ際に必ずキスをしてくれた。
「このキスもなくなったら、僕を忘れたことになるのかな」
「さあな。今したのも忘れて、おまえを薄情者だって責めるかも」
「なに、それ。キスなら何度でもしてよ」
僕たちはそんな会話のあとに、くすくす笑いながらまたキスを交わしたりした。
あの夜のような焦れったい欲望は鳴りをひそめていて、ふたりともお互いを包み込むような、優しい気持ちでいっぱいだった。彼の元気を奪うのは本意ではなかったけど、僕を抱きしめる腕やキスをする唇からは、僅かにエネルギーが流れてくるのが感じられた。
瀬田さんの家族と鉢合わせするのは気恥ずかしかったので、なるべく時間をずらすようにしていたのだが、ある日病室でばったり妹さんと会ってしまった。
ノックのあと、ドアを開けて若い女性が入ってきて、僕はとたんに緊張した。
誰だろう 僕はここにいていいのかな…
ついそんなことを考えてしまっていた。
「おう、美咲。今日は遅かったな」
「…こんにちは。お邪魔してます」
ぎくしゃくしながら挨拶する僕を見て、怪訝そうに会釈する彼女に瀬田さんが僕を紹介した。
「俺の恋人」
「ちょっ…、亘さん」
にこにこ笑っている瀬田さんに、僕の方があわててしまった。美咲さんは少しの間、僕の顔を見ていたけど、何か思い出したように笑顔になった。
「もしかして、藤原さんですか」
「あ、はい」
「そうでしたか。妹の美咲です」
僕が実家を訪ねたのを覚えていてくれたようだった。
「あの時、藤原さんが来てくれて本当に助かりました。ありがとうございました」
「あっ、はい。いえ、あの…」
深々と頭を下げる美咲さんに、僕はしどろもどろになってしまい、その姿がおかしいと言って瀬田さんが笑いだした。
その日は終始ご機嫌の瀬田さんは、美咲さんともたくさん話をしてよく笑った。美咲さんは僕との時間を邪魔してしまったとしきりに気にしていたが、彼の笑顔が見られて僕は何よりだった。
僕が実家に押しかけた時の思い詰めた様子は、今の彼には見られなかった。その表情に憂いはもうすっかり失くなっていて、まるで僕から逃げようとしたことさえ忘れてるかのようだった。
あの時、無理にでも会いに行ってよかった。
穏やかな時間を彼が過ごしているのが、僕には嬉しかった。
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