陽春

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〈陽春⑤〉♡ だけど、別れは突然に訪れた。 その日は何だか離れがたい気持ちでいっぱいだった。 いつものキスのあとも立ち上がらない僕に、瀬田さんは不思議そうに尋ねた。 「時間、まだ大丈夫なのか」 「ん…。何だか、帰りたくなくて…」 「どうしたんだよ」  瀬田さんは微笑んで僕を抱き寄せた。僕は彼の首筋に鼻先を(うず)め、痩せて細くなった彼の肩に頭を預けた。 「おまえも結構、寂しがりだからな」  僕の頭を抱えるように腕を回して優しくキスをする彼に、無性に甘えたくて僕はぎゅっとしがみついた。ここまで僕を甘やかしてくれるのは、彼だけだった。 もし 亘さんがいなくなったら… 不意に彼を失うかもしれない不安に襲われて、僕は彼から離れられずにいた。瀬田さんは子どもをあやすように、優しく髪を撫でてくれた。 「樹。ありがとな。俺、凄い幸せだよ」 「…僕も」  毎日僕にくれるその言葉も、今日はいつにも増して僕の心にしみてきた。素直な彼に泣きそうになった。 「…亘さん。大好きだよ」  僕の突然の告白に、瀬田さんは微笑んだ。 「ありがとう。俺もだよ」  僕たちはもう一度キスを交わした。 「だから、泣くな」 「…泣いてないっ」  僕がムキになると、彼は屈託のない笑顔で言った。 「また明日な」  そう約束して、僕は病室を後にした。 携帯が鳴ったのは、その日の真夜中だった。 『瀬田さんの容態が急変しました』 実家へはもちろん連絡が行くけれど、瀬田さんは僕にも連絡するように病院に頼んでくれていた。 タクシーで駆けつけると、当直の顔見知りの看護師さんが僕を見てすぐに案内してくれた。 「ご家族が到着するのには、まだ時間がかかりそうで…」  瀬田さんは酸素マスクと心電図を付けられていた。 「自分で何か異変を感じたのか、ナースステーションに来たところで(うずくま)ってしまったんです」 「何が、あったんですか」 「脳の中で出血が起きていました。今はまだ、呼吸も心拍も確認できていますが、出血はかなり広範囲に渡っていて、全身の機能が落ち始めています」  眠っているような穏やかな顔だった。 「恐らく、もう意識は戻らないかと…」  先生は申し訳なさそうに言った。 そのリスクは瀬田さんからも先生からも、何度か聞いていたことだった。 僕はゆっくり彼に近づいた。今にも目を開けて僕に微笑みかけてくれそうだ。頬に触れると彼の体温が伝わってきた。僕は手を握って呼びかけてみた。 「…亘さん」  彼は答えない。 僕を愛してくれた、大きな手。 温かいけど、ぴくりとも動かない。 寝起き 悪いからなぁ… 場違いなことを思い出して、うっかり笑いそうになった。 声は届いているだろうか。 映画やドラマで見たように実は話を全部聞いていて、僕が話しかけたら涙を流したりして。 だけど、それ以上口を開いたら自分が泣いてしまいそうで、僕はただ彼の手を離せないままでいた。 その長くて綺麗な指に、自分の唇を触れさせた。 あの夜、彼がしてくれたように、優しく愛撫するみたいに。 僕はまた 一人になるんだ… 寂しさが込み上げてきた。 一度手にしたものを失うつらさは、身にしみていたはずだった。必ず失うとわかっていながら、それでも僕はこの人のそばにいることを選んだ。それは僕の自己満足でもあったけど、彼を救いたかったのも本心だ。そして、彼も最後まで僕を忘れずにいてくれた。 これでいいんだよね 大好きな人がいなくなったら、寂しいのは当たり前だ。でも、先輩が去っていったあの時とは比べるまでもなく、今の僕は幸せだった。 瀬田さんは昨日会った僕のことは忘れても、僕とのあの夜のことは覚えていてくれた。 きっと忘れるって、言ってたのに。 それを一番、怖がっていたくせに。 「ホント、嘘つき…」  涙で彼の顔が(にじ)んだ。 彼の意思もあって、駆けつけた家族は瀬田さんの事実上の死を受け入れた。泣き崩れる母親らしき人と、それを支える男性の姿を、僕はぼんやりと見ていた。 美咲さんは2人のそばに立って、ぐっと涙をこらえているようだった。僕はかける言葉が見つからず、3人から少し離れたところに立っていた。 「…藤原さん。兄についていてくれてありがとう」  美咲さんは笑顔さえ見せて、僕にそう言った。 僕が頭を下げると、男性も会釈を返した。目が合うと彼は僕に優しく微笑んだ。その顔に瀬田さんの面影が重なって、また涙が滲んできた。 「藤原くん」  看護師さんが僕を手招きした。僕はあわてて涙を隠して廊下に出た。 「瀬田くんね、日記をつけてたの」 「日記、ですか…」 「その日あったことを簡単にだけどね。楽しかったことを忘れないように。少しでも覚えていられるようにって」  看護師さんは瀬田さんの携帯電話を僕に手渡した。 「後でご家族に返さなきゃいけないけど、瀬田くんに頼まれててね」 「…この中に?」 「あなたのことが書いてあるんだって、嬉しそうに教えてくれたの。読んであげて」  僕は病室から陰になっているソファに腰を下ろした。 メモを開くと『日記』の文字があった。 日付を追っていくと、初めは僕と何を話したのか自分がどう思ったのかが細かく書いてあった。瀬田さんとの会話を思い出しながら、僕は彼の日記を読み進めていった。 中庭を散歩した時のこと。 彼が教えてくれた、花の名前。 屋上での告白と、最後のセックス。 砂浜に寝転んで秋の空を見上げたこと。 流星群も一緒に見た。 毎日のハグとキス。 そして忘れもしない、あの夜のこと。 何てこともないけど、彼と過ごしたかけがえのない大切な日々。 月が変わるたびに文章は短くなった。文字が少なくなり、絵文字がその代わりになっているようだった。何を話したかどう感じたか、だんだん思い出せなくなっていったのかもしれない。もどかしかっただろうに、彼は日記をつけ続けた。
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