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〈陽春⑥〉
最近に近づくにつれて、ほとんどが絵文字だけになっていた。何だか女の子のメールみたいだと、笑いが込み上げてきそうになりながら、僕は日付を追い続けた。
笑顔の絵文字は自分の気持ちだろうか、それとも僕のことかな。
…なんて自惚れすぎか
ここ数日の彼の日常は、同じような毎日の繰り返しにすぎなかった。僕との会話をどれくらい覚えているのか、心許なかった。
昨日の日付になった時、僕の目が止まった。
そこには笑顔と泣き顔の絵文字がふたつ並んでいた。そのあとに初めて目にする小さなハート。
彼に似つかわしくないその絵文字に、僕は吹き出した。…つもりだった。
液晶画面に涙が落ちた。
彼が残したものから目が離せないまま、僕は涙が止まらなかった。
「なんで…」
僕が寂しくて甘えていたのを、瀬田さんはちゃんと覚えていてくれた。僕の『大好き』という言葉も。
きっと、彼は毎日この日記を読み返し、記憶を辿っていたんだ。何度も過去をやり直し、僕とのことを覚え直していった。
僕を、忘れないために。
『忘れないよ』
彼は約束を守ってくれた。
別れ際のキスをする時に、彼は僕をいとも簡単に抱きすくめる。痩せて細くなった腕の、どこにそんな力が残っているのかと思うほどだ。彼の腕も、優しく触れるその唇も、毎日そのたびに僕を思い出してくれていた。
まだ残っている日付をスクロールしていくと、3月21日のところにバースデーケーキの絵文字があった。
『樹 21歳おめでとう』
恐らく初めの頃、忘れないうちにメモしたものだろう。この日まで生きていられたら、僕に伝えようと思って。
僕は目を閉じて携帯電話を胸に抱きしめた。
「亘さん。ありがとう…」
瀬田さんは僕たちに見守られ、夜明け前に息を引き取った。
瀬田さんのお葬式には行かないつもりだった。
空っぽになってしまって、自分を保てなかったこともある。だけど、本当の理由は他の誰よりも泣いてしまいそうだったからだ。
彼を失って一番悲しんでいるのは、僕だった。
でも、例えそうだとしても、家族の前でそれを口にすることも、慟哭する姿を見せるわけにもいかなかった。
美咲さんはそんな僕の気持ちを察してくれたようで、別れ際に瀬田さんの携帯を僕に手渡した。
「これ…」
「あなたが持っていてください」
「…ありがとう、ございます。顔を出せなくてすみません。最後の最後で逃げてしまって」
美咲さんはかぶりを振った。
「もう十分です。藤原さんは毎日兄に会いに来てくれました。兄が何度忘れても、それを受け入れて声をかけてくれて」
「そういう、約束でしたから…」
「そのおかげで兄は最後まで笑顔でいられたんです」
最後に会った時の瀬田さんを思い出した。
『また明日な』
翌日も僕に会えることに何の疑いも持たず、彼は僕に微笑んだ。そこには怯えていた彼の姿はなかった。
「兄を幸せにしてくれてありがとう。今度は、藤原さんが幸せになる番ですね」
笑おうとした僕の頬を、涙がこぼれていった。とっさに顔を背け、やっとのことで言った。
「ごめ…、なさい…」
うつ向く僕に、美咲さんはハンカチを握らせて黙って立ち上がった。廊下の片隅で僕は一人、声を殺して泣いた。
そのあとから数日のことは、よく覚えていない。
ただ、自分の家に帰るのに、病院からしばらく寒空の下をさまようように歩いていた気がする。春風と呼ぶにはほど遠い冷たい空気は、僕の頬を凍りつかせ、涙を食い止めてくれた。
それでも歩き疲れて、途中で駅に向かった。
平日の下りの電車は、そこそこに乗客がいた。僕はなるべく何も考えないようにして、窓の外の流れる景色をぼんやり見つめていた。
車内はエアコンが効いていて温かかった。それで気が緩んだのか時折涙が滲んできて、嗚咽が込み上げるたびに電車を降りた。ホームの端で冷たい風に吹かれながら呼吸を整え、また次の電車に乗ることを繰り返して、やっと部屋にたどり着いた。
涙が枯れるまで、3日かかった。
誕生日を迎えて、僕はひとつ歳をとった。
風はすっかり季節が変わったことを告げていた。
先日、マスターに電話をかけた。
「今年の誕生日も、また1人だったよ」
『…そう。寂しいけど、あんた、いい恋したじゃない』
「…そうだね」
『少し元気が出たら、またおいで。待ってるから』
マスターの言葉で、自分の選択が間違ってなかったことがわかった。今はそれだけが支えだった。
『樹は我慢しすぎなんだから』
「うん…」
僕の生活は、また以前の無味乾燥な日常を繰り返していた。1人でふっと気を抜くと、今でも瀬田さんが声をかけてきそうな気がする。いつもの笑顔で、くだらない冗談やちょっかいを仕掛けてきて、僕を笑わせる彼を思い出す。
でも、僕は彼のもうひとつの顔を知ってしまった。
恐らく誰も知らない顔を。
僕は目を閉じた。
『樹』
熱を帯びた瞳で、彼が僕を見つめている。
僕を呼ぶ掠れた声が耳の奥に響いてきて、思わず身震いする。彼は優しく愛撫して、大切なものを扱うように僕を抱いた。
彼の腕の中で僕は自分を取り戻し、心ゆくまで彼に愛された。たった一晩の記憶が僕たちをつなぎとめて、ふたりに幸福をくれた。
今思い出しても、瀬田さんと過ごしたあの日々だけが、鮮やかな彩を放っている。
また新しい涙が滲んできた。
だけど、ひとつだけ気づいたことがある。
僕が僕のそばにずっといてくれる人に巡り会えたら、きっと瀬田さんみたいに笑って毎日を過ごせるんだ。
最後に彼がそれを教えてくれた。
『俺が保証する』
そう思うと、悲しみが少しだけ減ったような気がした。
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