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鞄も財布も携帯も、何一つ持たずに哀の体で家を飛び出した俺は、思考回路が壊れかけてやり場の無くなったモヤモヤを呼吸に乗せて吐き出す。
──何考えてんだ、アイツ。
確かに美人で清楚と形容できる哀だが、最初に顔を合わせた時に俺は少し風変わりだと感じたのも事実だった。
顔に貼り付けた笑顔とは裏腹に、目に映る全ての人間に全く関心が無いような虚な瞳。
振る舞いの上品さでは隠せない哀愁を持ち合わせた彼女は、俺の中で土砂降りの雨に打たれてもなお強がる野良猫を連想させる。
まるで月が周りを照らして浄化してゆく純真さを持ちつつも、払った穢れの全てを背負い込む空気を纏う哀と言葉を交わした俺は、本能的に同じ類だと確信した。
『お兄ちゃん、キスしよ?』
内耳にへばり付いたその声が胃もたれを引き起こすほどの甘さでのし掛かり、俺は思わず道路に転がる小石を蹴飛ばす。
カラカラと音を立てて俺から逃げてゆく小石を見つめながら、見事に入れ替わった哀の足先から伝わる痛覚に顔を歪める。
──まさか本当に入れ替わるなんて……。
少し前なら願ったり叶ったりだったはずなのに、何故か俺の心は晴れる事なくモヤが掛かっている気さえした。予想を大きく上回って猫を被っていた野良を手懐けるどころか、酷く手を噛まれたものだ──。
心情を反映したような夜の帳が空を片っ端から侵食し、男の体とは比べ物にならないほど鈍い動きと動くたびに揺れる胸元に戸惑いつつも翔太の家を目指している俺は、自分の図々しさと貪欲さに思わず片頬を釣り上げる。
「哀ちゃん?」
俺は動きを止めた。
その声は紛れもなく待ち望んだ彼のもので、今まで一度も俺に対して向けられた事の無いソレには甘さが溶けていた。
「翔太……さん」
まるで別の生き物みたいに跳ねる心臓を捻って振り絞ったような弱々しくも痛々しい声は、闇夜の風に攫われて切なく響いてゆく。
「会いたかった」
少し顔を傾けては頬に皺を寄せて笑う翔太は、迷いなく哀の体を引き寄せて抱きしめる。割れ物を囲うように優しく俺を抱く彼から漂う柔軟剤の香りは、今まで隣で嗅ぐことしかできなかった特別な匂い。
「……私も」
言葉を噛むように答えた俺は、二度と味わえないかもしれないこの時を刻むように翔太の背中にそっと手を回して、熱の上がった体をピッタリと寄せた。
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