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俺が耳に届いた言葉を理解した時には、唇にほんのりと温かく柔らかい感触が伝わる。
甘い香りに釣られたように頭が呆けた俺はぎゅと目を瞑ると、哀の舌が俺の下唇をなぞっただけで体を震わせてしまう。
「ちょ……」
彼女を止めようと開けた口の端から滑り込んだ哀の舌は、なす術も無いまま俺の口内を深く湿らせてゆく。恋愛初心者マークが今だに取れていない俺は、ぼんやりとした脳味噌の端で翔太の幻影を思い浮かべる。
──翔太も哀とこうやって口付けを交わすのかな……?
ひりつく考えを振り払うように俺が身を捩ると、「ん……っ」という情けない声が喉から漏れた。
「可愛い」
その言葉と共にやっと解放された俺は薄目を開け、ゆっくり身が離れていく2人の間に透明な架け橋が名残惜しそうに糸を引く。
「お待たせ、お兄ちゃん……って、今は私がお兄ちゃんか」
いつも使わない表情筋で柔らかい笑みを浮かべた俺──中身は哀──は底知れぬ妖艶な表情で、先程までまぐわっていた舌先で俺の指に触れる。
「嘘……だろ……?」
視界からいなくなった哀の代わりにツクツクと笑う俺を見ながら、何かの間違いだとばかりに俺は目を擦った。
「嘘じゃないよ」
目を細めて体を起こした俺に抱えられ、なんとも言い難い体温を与えられた哀の体は、酷く華奢で今にも折れてしまいそうにも思える。
目の端に映り込む焦茶色の髪が顔を撫でるたびに、この感覚が偽りでも冷やかしでもない事実として俺に知らしめた。
俺は唇を噛んで俺の体を睨み付けると、悪びれた様子のない彼女は「そそる」と額に口付けを落とす。
「何考えてんだよ……こんなのっ」
女声特有の耳を刺すような悲鳴に近い声で哀を詰ろうとしたその時、俺の体のポケットに入れている携帯が鳴る。
着信音を変えているのは1人だけ……俺は画面を見なくても翔太からの電話であると察知した。
「翔太さんだね……出る?」
今の状況で出れない事を分かっていながら訊ねた腹黒の義妹は、コール音を響かせる俺のスマホを目の前でちらつかせる。
「……お前が出ろよ」
毒々しい感情を乱雑な言葉に乗せた俺がそう答えるのを待ち望んだように笑った哀は、通話ボタンをタップしていつもの俺がしているように「何?」と答えて振る舞う。
「もしもし……相変わらず機嫌悪りぃな」
わざと翔太の声が聞こえるようにスピーカーにした彼女は俺の背中を抱えながら「そうか?」と耳元で会話を続けると、彼女の吐息が俺の耳を擽ってゾワリと脇腹が震える感覚が全身を走った。
「今って1人?哀ちゃんってそこにいる?」
何も知らないはずの翔太に名前を呼ばれた俺は、哀本人でもないのに期待に鼓動を早める。
「いるよ」
ぶっきらぼうに答えた哀は俺の心中を察したように背中を抱いていた手を離して、指先で背骨を伝って優しく弄ぶ。
「ひゃんっ」
思わず出た端ない声が玄関に響くと、電話越しの翔太が「えっ……何?」と動揺の色を混ぜた声で尋ねる。
「さぁ?……なんか虫でも出たんじゃないの」
「虫?なら……良いけど」
無理のある言い訳を訝しげに飲み込んだ彼は、俺のフリをした哀と気付く事なく「哀ちゃんに電話したんだけど通じなくてさ……」としょぼくれたような声で呟く。
「なんか用事?……あれなら電話代わるけど」
「いや、ただ会いたいなって思ってさ」
少し照れ臭そうな翔太が言葉を紡ぐと、彼女は俺の肩に顎を乗せて「へぇー」と意地悪く笑う。
「翔太の家に送り込めばいい?」
彼女の携帯を持っていない方の手が、垂れ下がった焦茶色の帳を掬って俺の耳に優しく掛ける。
耳の輪郭を確かめるような焦ったい手付きに肩をびくつかせた俺は、堪らず彼女の肩に顔を埋めて声を殺した。
「言い方な……まぁ、来てくれるならめちゃくちゃ嬉しいけどさ」
相変わらず邪気のない声に彼への罪悪感が募る俺は、抵抗する気を失った足に渾身の力を込めて立ち上がると、俺の皮を被った哀を押し除ける。
「いい加減しろ……1人で行ってくから、これ以上妙な真似すんな」
今だに触れた感覚が残る身体を誤魔化して彼女を見下した俺は、逃げ出すように玄関の扉を勢いに任せて押し開けた。
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