第三話 あなたには届かない

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 * * * 「そういえば最近、ヴァネッサさんはどうしてますか?」  今日の注射と記録を終えて、不意に研究員のお姉さんが尋ねてくる。  あの日、床に投げ捨てられた花はいまも花瓶にあって、長いこと木の枝のように枯れてそこにある。  対してあたしの頭の蕾は、あの日からまた少し、大きくなっている気がした。 「いいのよあいつなんて」  二週間が経っていた。三週間経っても、一ヶ月経っても、もしかすると、ヴァネッサはもう来ないかもしれなかった。  それでもあたしは、もうそれでいいと、思っていた。  ヴァネッサとあたしは、違う。  確かにあの時、あたしはとんでもないことをしたかもしれない。  けれどもヴァネッサだって。 「もうじき『機会仕掛けの竜』の一次試験の時期なんですけど、うまくいくといいですね」 「……そーですね」 「でもヴァネッサさん、すごく勉強のできる子ですし、考え方もとてもよかったので、簡単に通過できると思いますよ」  にこにこと話す研究員をよそに、あたしは適当に流しつつ、手鏡で自分の蕾を眺めていた。真っ白な蕾。触ると少し温かい。根本にこそ、触れると自分の身体の一部を触っている感覚があるものの、蕾自体にはそういった感覚はない。  この蕾は何なのだろう。改めて考える。  自分から生えた、何か。  ――自分の内側から突出した、何か。  病だとか、呪いだとか言われているらしいが、一部では進化とも言われているらしい。  ――暇つぶしに読んだ本の中で、この蕾は「体外へ突出した魂の一部なのではないか」なんて書かれていたのを思い出す。  そう考えると、あたしの魂というものは、真っ白なのだろうか。性格はよくないと言われるけれども。  真っ白で、はっきりしていて、何色にも染まらない。  でも花というのは色とりどりだ、色のない真っ白な花は、孤独なのかもしれない。  ……そんな夢想をしていると。 「あの子、本当は今すぐにでも研究員になって、あなたを助ける方法を見つけたいんですって」  不意に研究員が言い出す。そういえば、似たようなことを彼女自身が言っていたっけ。  ところが。 「自分と違ってはっきりものを言って、自分に自信があるあなたが、とても素敵だって、言ってましたよ」 「……」  それは初めて聞いた。ヴァネッサは一度もそんなことを言わなかった。  そもそも、はっきりものを言うのは彼女も同じであるし、自分に自信がありそうなのも、彼女も同じだった。  ――もしかすると。  ――もしかすると、本当は違ったのだろうか。 「だから、もっと話したいから、長生きしてもらわないと困るんだって」  ヴァネッサは、あたしのことを知らなかった。  だからこそ、あたしは彼女が遠くにいるのだと感じた。  けれども本当は、あたしが彼女から遠い場所にいたのではないだろうか。  ヴァネッサのことを、そんなに、知らなかった。  それでも、でも、だ。 「……ヴァネッサがいますぐ研究員になったところで、蕾がすぐどうにかなるわけでもないし」  あたしがそう口にすれば、研究員はぎょっとしたような顔をしていた。  まさしく事実だった。どんなに研究をしても、もう意味がないのだ。  蕾は確かに膨らんでいる。  そしてあたしは開花を、完成を待っていて――ヴァネッサには理解されない。  芸術と一緒だ。何が美しくて、何がそうでないのか、人によって違う。  * * *  ヴァネッサは無事に、一次試験を通過できただろうか。  時折考える。あれから何日が経ったか。結果はもう出ている気がした。  しかしヴァネッサは報告しにこない。そもそも様子を見にも来ない。  花瓶が空っぽになって、いったいどれくらいが経っただろうか。  あたしには家族がいない。それまでは可愛がられていたはずだったけれども『花憑き』になったとわかった時に孤児院送りにされた。珍しい話ではない。そうやって、人は縁を切る。  だから病室に来る人は、もういない。いるとしても研究員だけ。あとは「美人の『花憑き』がいる」と覗きに来る奴らがちらほら。  退屈はしなかった。気付けばヴァネッサのことばかりを考えていたから。  けれども寂しかった。ヴァネッサだけは、ほかの人と違った。そう感じていたのだ。だからあたしは気に入っていた。  ……もっと話をしたかったかもしれない。  互いにまだ、知らないことがたくさんあったはずだから。  それでも時間は流れて、研究の成果も芳しくなく、その時は来る。  蕾はなんのためにある?  蕾は開花するためにある。  ――夜だった。少し寒かった。そのせいなのか、はたまた異変に気付いたのか、あたしはふと目を覚ました。沸き上がってくるかのように、徐々に感覚を取り戻していき、気付いてベッドから抜け出した。裸足で触れた床は、まるで水の上を歩いているかのように、冷たい。  手鏡を取る。  鏡の中、あたしの蕾が、蠢いていた。  赤ちゃんが身じろぎするかのように、もぞもぞ。少しくすぐったかった。やがて解けるように、白色が広がる。窓から差し込む月光を受けて、より美しく輝く。  痛みも何もなかった。しかしあたしの頭には、中央に黄色を湛えた、白い花が大きく開いていた。  ついに咲いた。鏡の中のあたしは、月光のせいかどこか絵のようで、別人に思えた。しかし微笑めば、向こう側のあたしも微笑む。  完成されたあたしがそこにいた。  やっぱり花は、咲いてこそ、美しかった。  ――これで死んじゃうんだな。  ぽつりと胸中に落ちる雫。けれどもそれくらいにしか思えなかった。  あたしの人生は、いま、完璧なフィナーレを迎えている。 「……ヴァネッサにも、見てもらいたかったな」  いまの自分が女神のように思えて、手鏡を持ったままくるりと回れば、質素な患者服の裾が、それでも翼のように広がった。  きっと、今の自分は何よりも美しくて、もう誰も『花憑き』だ、なんて蔑むことはできないだろう。  だから思う。ほかの人と違って、あの事件の前こそあたしを受け入れてくれていたヴァネッサなら、今の姿を褒めてくれるかもしれないと。頭はお堅いけれども、少しは考えを変えてくれるかもしれないと。  いてもたってもいられなくなった。  あたしは大きく開いた窓枠に足をかけた。  もし開花したのなら、すぐに研究員を呼ぶこと――そんな注意を無視して。勝手な外出も禁止されているのに。  冷たい空気があたしを包み、迎え入れた。夜中らしくて、星や月の輝きが美しかった。どこか照明にも思えるその光の中、あたしは裸足のまま、冷たい地面の上を歩き、生け垣の隙間から街へ歩き出す。道を作る煉瓦も冷たい。まるで世界は水の中か、氷でできているかのようだった。街灯の輝きも鋭く思える。  人影は一つもなく、明かりのついている家も数えるばかり。頭に白い冠をつけたあたしは、魚のように進んでいく。  ヴァネッサの家は一度も行ったことがない。けれども場所は、聞いたことある。  こんな夜中であるものの、まだ彼女が起きているような気がした。きっと机に向かっている。熱心に勉強しているに違いない。  だから彼女が眠ってしまう前に。  もうあたしは、いまが夢なのか現実なのか、わからなくなり始めていたけれど。  死ぬのかと思ったけれども、きっとそうじゃない。いまになってわかる。  あたしは花になる。美しい花に。  蛹が羽化して蝶になるように。  ――ああ、でも。  花は蝶と違って、羽ばたくことはできない。  全身の力が抜けていくのを感じた。急激な眠気を覚えた、そういった感覚に近かった。  まさに幕が下りたかのように、全てがわからなくなった。  それでも冷たい風を感じていた。  ――道の途中に落ちた『花憑き』の白い花。  ヴァネッサはこれを、あたしだとわかってくれるだろうか。
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