第五話 あなたのいない未来にて

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 * * *  もしも時間の流れというものが目に見えて、それが川に似ているのなら。  あたしはまだ、その流れに乗っている。浮いている。  けれどもミオは沈んでしまった。沈んで消えていった。 「去年はまだ、まれに『花憑き』を見たんだけどさ」  あたしはミオの墓石の前に座り込んだままだった。誰もいないから気にしない。この場所までは、街を満たす花弁が飛んでこない。 「もう今年は、全然見ないよ。みんな多分『発蕾』したらすぐに切り落としてるんだと思うんだよね~、まあ切断するとハゲがしばらく残るから、年頃になってからやるとなると、大変だし」  手術後、ようやく包帯を外していいと言われ外してみると、綺麗に頭皮が見えていたことを思い出す。そこに蕾がないことよりも驚いた。つるつるだった。髪の毛が生えてくるのには結構な時間がかかって、だからそれからも、しばらく包帯を巻いていたことを思い出し、あたしは笑う。  ミオは笑わないけど。 「それに、切り落とすと蕾はすぐに枯れるから、育てて記念品に~なんてこともできないし」  切り落とされた蕾はすぐに枯れる。あの美しい庭園に行くことはない。 「あたしのも枯れちゃったし……って、まあそのあたりは、あんたも似たようなもんか……」  結局あたし達は、どちらも咲くことができなかった。  一緒にいることはできなかった。  約束は果たされなかった。  しゃがんでいるのがつらくなって、あたしは一度立ち上がる。誰もいないことを改めて確認すれば、ミオの墓石に寄りかかった。  かつてミオは温かかった。白い手は、冷たさの中に確かな命の温かさを秘めていた。  いまはただ冷たい。冷たくて、まるで色が抜かれたような無機質の白さに染まっている。今日の天気はもはや虚しさを覚えるくらいに青く晴れていて、けれどもミオの墓石は、その色に染まることもない。  あたしは、もしかすると、彼女が喋るのを待っていたのかもしれない。しばらく黙っていた。  ただやっぱり一人で、自分からこの静寂を破るしかなかった。 「ねえミオ」  ――ミオが自殺してから、ずっと、彼女に尋ねてきたことがある。 「どうしてあの時、一言声をかけてくれなかったの?」  もし、一緒に死のうと言ってくれたのなら、あたしは。  十年経った今でも考える。もしもあの時。けれどもミオはどうして、と。  彼女なら、きっとあたしの手を取って言ってくれたはずだった。一緒に死んで欲しい、と。  でも。 「……きっと、あたしが何ていうか、わかってたから聞かなかったんだろうけどさ」  もしも、あたしが彼女にそう言われたのなら、きっと震えていただろう彼女の手を、包むように握り返していたと思う。  そして、多分、そう、多分。  ――生きてみるのも、ありなんじゃない?  あたしは、おそらく、そう返していた。 「ねえミオ」  それから、ミオにはもう一つ、尋ねたいことがあった。 「――あの時、なんて言ったの? あたし、記憶から消しちゃったの」  * * *  『花憑き』の治療法が見つかった。  その噂を聞いて、当時ノーヴェ女学院五年生だったあたしは、一つ、夢を見た。  初めて未来のことを思い描いた。  ノーヴェ女学院五年生といえば、卒業目前の学年であるため、先生から将来のことについて聞かれ、また考えさせられる学年となる。あたしもちょうど、そういった面談を繰り返していたものの、何もなかったのである。  だって、未来なんてないのだから。  だって、ミオと共に咲くと、約束したのだから。  ところがもしも。もしも自分が、大人になれたのなら?  自分は一体、何ができるのだろう。  咲かない、早死にしないということは、どういうことなのだろう。  そして――大人になったミオは、どうなるのだろう。 「ミオはさ」  深夜の邂逅は、満月の夜に行われる。昼間でも問題なくあたし達は会うことができたが、あたし達はこの特別な時間を、長いこと大切にして守ってきていた。 「ミオはさ、もし大人になれたら、どうする?」  ミオが自殺する前の、最後の深夜の邂逅。あたしはそっと尋ねてみた。 「どうしたの急に?」 「いや~最近面談いっぱいあるじゃん。あたし、何にもないから、先生にめちゃくちゃ言われるんだよね」 「そういえばフルスって、よく呼び出しされてるし、面談も時間がかかってるね」  鈴のようにミオが笑えば、青い蕾が月光にきらめいた。 「私はね、もう普通に『咲いちゃうから何も考えてないです』って言ってる」 「……それ、ありなのっ?」 「ありだよ。でもね、毎回そう言ってるけど、毎回すんごく怒られる!」 「だめじゃん!」  きらきらきらと、輝くように、あたし達の笑い声が響く。  ――あの笑顔の中、ミオの瞳に光はあっただろうか。  やがてあたしは溜息を吐いて、大きくのけぞった。 「やっぱりちゃんと自分で考えなきゃだめかぁ」 「……いつもみたいに適当じゃあだめなの?」 「それでもいいけどさ……先生相手に誤魔化すの、面倒だし」  『花憑き』の治療法だって、見つかったのだから――なんて、言わない。  あたしは生きることを、考えなくてはいけない――なんて、口にできない。  裏切りにも似ているような気がして、怖かった。 「とりあえず、消去法で……不器用だから何か作ったりする仕事はだめ。家事とか全然できないから、飲食店で働くのとか絶対無理、ていうか人の命令聞くの無理」 「花屋は? お客さん、少ないよ?」 「あ~無理無理。動物どころか自分の世話もできないから!」  本当に、なりたいものなんて、ないのだ。  しかし見上げた空に、星はいくつもあったから。 「……でもそのうち、何かできることとか、やりたいこと、見つけられるでしょ、さすがに」  ――きっとミオは、この時、あたしの瞳に輝きを見たのだと思う。  並んで空を見上げた彼女は、口をかすかに開けて、数多の星の光に晒されていた。  そして彼女はどの星の輝きも、拒絶した。 「ねえフルス」  不意にミオはすっくと立ち上がった。座ったままの、あたしを見下ろす。 「私、フルスのこと――」  ――その後の彼女の言葉を、私は思い出せない。確かに聞いたはずだった。それなのに、忘れてしまった。  正しくは、おそらく、記憶から消してしまった。  自分自身で、消してしまった。  それがミオからあたしに対する、何らかの感情を示す言葉、意味を含んだ声だったとは憶えている。  それしか憶えていない。  表情だって影になってわからなかった。かすかに口元が見えていたのは憶えている。笑っていた、と思う。優しく、寂しそうに。 「――そろそろいかなきゃ。明日、起きられないわ」  と、その数秒がまるで夢だったかのように、ミオは顔を上げて、再び花畑を見据えた。  やがて彼女は、道を歩き出す。 「ばいばい、フルス」 「――あっ、うん、また明日ね、ミオ」  花があれば、頭に蕾があったままだったのなら、あたし達の終点は同じはずだった。  でも道が伸びれば、変わることもあるだろう。二手に分かれることもあるだろう。  あの時、あの瞬間、道が分かれたのかもしれない。  そしてミオはその道を歩き続け、あたしの歩く道から離れていき、消えた。  ――明日は来なかった。  この後ミオは、冷たい川に飛び込んだ。
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