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午後11時35分。
風呂上がりに、ベッドに寝そべってスマホのバッテリーがなくなっていないか確認する。
まだ半分あるから、大丈夫だ。
毎日、通話時間は5分以内と決めている。トークが長いと相手に嫌われてしまうからだ。毎日少しずつでもいいから、話すことで元気になってほしい。
今日も発信履歴から探し出してコールする。
「あの、ボクだけど」
「うん。そろそろかかってくるだろうな、って思ってた」
「あのさ、今日も職場で女の人を怒らせちゃったよ。『その言い方、セクハラですよ』とか言われてさ」
「へえ」
いつもこんな風に唐突に今日あったことを一方的に話す。向こうは全くつれないが、これもいつものことだ。
ずっとこの女性を追いかけ続けて、ようやくここまでの関係性を得られた。
「ほぼ」会ったことがないけれど、電話で頻繁に話し、近しい存在になっている。
この女性の名前は眞央。ボクの隣町に住んでいる。年は30代半ばだと思う。それ以外の情報は、全然知らない。
ボクからすると5歳くらい年上か。
ボクは一度だけ眞央に、会ったことがある。
しかし、眞央はボクに会った記憶などまるでない。なぜなら、あの時、眞央は気を失っていたから。
Facebookで名前を検索して、すぐに見つかった。
勇気を振り絞ってMessengerで「隣町に住むアイドルオタクです。友達になってください」と眞央に送ってみると、友達申請を受け入れてくれた。
幸い、眞央もアイドルが大好きで、共通の趣味の話題をMessengerやLINEで交わすようになり、電話をかけられるようにまでなったのは、約一カ月前だ。
最初は不信感を払拭するのが大変だった。しかし、毎晩同じ時間にかけると、向こうも習慣化して受け入れてしまう。
「そういえば」
「次は何?」
「実はボクの会社で、昨日から捨てネコが職場にいてさ、ひょっとしたらボクがもらうかも」
「え、どんなネコ? かわいい?」
この話題には興味を持ったようだ。
「まだ子ネコかな。かわいいけど痩せてて、行き先がないみたいで」
「どんな毛の模様?」
「黒の毛がシマシマで入っていて、全体的にはグレーが基調の柄だけど」
「サバトラね」
「その柄はサバトラって言うの?」
「そう。それより、助けてあげて。私が偉そうに言う立場じゃないけどさ。でもそのコ、誰かが通報して保健所に行ったら、すぐに殺されちゃう」
ネコに相当愛着心があるようだ。ひょっとしたら、うまくいくかもしれない。
「もし、ネコをもらったら、ネコに会いにボクん家まで来てくれる?」
「うん」
うまくいった。これでやっと会って話せる。
「いいの? ボク、怪しいヤツかもよ」
「別にいいよ、今更。私、守るものなんてないもん。子ネコに会えればそれでいい」
「じゃあ、ネコを飼うことにするよ」
「よかった」
「……じゃあ、いつ会ってくれるの?」
「うーん、来週の日曜なら……。昼くらいに行く」
「何で来るの?」
「車。あなたの家はいなべ市藤原町だったよね?」
「そう。後で家を表示したグーグル・マップをラインで送っておくよ」
「会うの、初めてだね。楽しみにしてる」
★★★
雲一つない、ターコイズブルーの空。
出迎えようと玄関前で待っていると、空があまりにも美しすぎて、ボクはまた孤独になる。
眞央に初めて会う日は、空が祝福してくれているみたいだ。
岐阜県と接する三重県最北端の街、いなべ市。ここのさらに北の端にある古田という地区の古民家にボクは一人で住んでいる。
東京の慌ただしさと終わることのない競争に疲れ、勤めていた大手広告代理店を辞めたのが去年。
地域おこし協力隊の募集を知り、見ず知らずのいなべ市へ移住して、地域の農園で働いている。格安の家賃で住める今の古民家は、市役所が紹介してくれた。
そろそろ、着くはずだが……。
ボクは玄関前で立ち尽くす。
すると、家の前の一本道をこちらに向かってくる車が目に入った。
あれか?
きっと、そうだ。
この田舎の集落に似つかわしくない、ワインレッドのボルボが、重厚なエンジン音を響かせてやってきた。
眞央だ。ボクに手を振っている。
痩せたな。
眞央を一目見て感じ取った。食べる気力がないのだろうか。
ボクも手を振り返して、家の前に車を駐車するようジェスチャーで指示した。
やっと会えた。
追いかけて、追い続けて、とうとうここまで到達できた。
会えた嬉しさに、満面の笑みで迎える。
「ようこそ」
「こんにちは。ネコはどこ?」
車を降りた眞央が開口一番に言う。
感慨深い気持ちになっているボクとは対照的に、眞央は素っ気ない。
「ネコね……。室内飼いだから、外には出してないよ」
「家の中にいるの? 入っていい?」
「いいよ。それよりボクたち初めて会うのに驚きが全然ないね。まるで昔からの友だちみたいだ」
「だってSNSでいつもあなたの画像を見てるから、いつも会っていたような感じがするよ」
「そうか」
眞央の表情は固く、笑おうともしない。勝手に玄関から中へ入っていく。
「家の中が汚くてごめん」
「全然、平気だよ」
土間の玄関から上がると最初に座敷の部屋がある。ここの奥の隅、本来仏壇を置くはずであろうが空いたままになっているスペースにネコはいた。
「いいコだね」
眞央は胸に押しつけるようにネコを抱いている。ネコも甘えた声で鳴きながら、母ネコに乳をねだるように前足で交互に眞央の胸を揉み出した。
「名前は何て言うの?」
「まだ、つけてない」
「そんなのかわいそうだよ」
「じゃあ、命名してあげてよ」
「いいの? 飼ってもいないのに悪いよ」
「いいって。早く考えて」
「オスかメスか、どっち?」
「獣医さんは、おそらくオスだろうって」
「男の子か。じゃあ、うーん。……『アキ』はどう? 秋産まれだし、私の心の『空き』を埋めてくれる存在だし……。ダメ?」
「いいね。アキか。じゃ、名前はアキで決定な。今、お茶を出すから待って」
それからは、眞央が「そろそろ帰る」と立ち上がる約2時間後まで、ただ雑談ばかりして終わった。
眞央は、美しい。
こうやって、これからも会えるだろうか?
名残惜しさと寂しさに支配されたボクは、最後まで一緒にいたくて、眞央の車まで見送りに行く。
「また、近いうちにアキに会いに来るよ」
車に乗り込む間際、眞央は嬉しいことを言ってくれた。
どうしようか。
いや、でも。
きっと、今、この時がいい。
隠し事や嘘から恋を始めたくない。
「あのさ」
「何よ、急に怖い顔になってさ」
「会えて嬉しいよ」
「私もだよ」
「でもな、……」
「何? はっきり言ってよ」
言ったら、嫌われるかも。
もし、もう会えなくなったら……。いや、これでダメなら仕方がないじゃないか。
覚悟を決めた。
「あのな。『どうして、死のうとしたんだ?』なんて聞くつもりはない。でもボクは『どうして生きようとしなかったんだ』ってことがすごく気になる。それこそ死ぬくらいの覚悟で生きようとしないのは、悲しいよ」
眞央は、呆然としている。
「眞央さんが上空から落ちてくれば、そりゃ驚くよ。ボクは最初、天女が舞い降りたのかと思ってドキドキした。でも現実は違ってた」
「……もしかして、あの時、救急と警察に連絡してくれたのは、あなた?」
ボクは頷く。
「119番通報した時に年齢を聞かれたから、申し訳ないけどズボンのポケットに入っていた職場の従業員証を見せてもらったよ。その時名前を知ったから、フェイスブックでつながれた」
「そうだったんだ」
「あの時、たまたま、下に街路樹の柔らかい枝が延びていて、その枝がクッションになって助かったからよかったよ」
「ごめんなさい。あの時、全然記憶がなくて……。私のせいで知らないうちにあなたに迷惑をかけていたんだね」
「いや、やっと言えてよかった」
「だから、心配して私に優しくしてくれたの?」
「違うよ」
「ホント、ごめんなさい」
「もう、いいよ。それよりネコに会いたくなったらいつでも来てよ」
「いいの?」
「もちろん。いや、こちらこそ迷惑じゃなかったら来て」
「ありがとう」
眞央は車に乗り込むと窓ガラスごしに手を振って走り出す。
最低だ、ボクは。
もう衝動を押さえきれなかった。
走り出したばかりの眞央の車に向かって、叫ぶ。
「謝らなきゃいけないのはボクの方だよ! 一目惚れだ! 眞央さんを追いかけた理由はそれだけ。死ぬくらいなら、自分のものにしたいと思った、ボクは最低な男だよ!」
ボクの叫びが眞央に聞こえたかどうかは分からない。でも、窓ガラスごしに頷いている。
また、一人ぼっちになった。
アキは縁側からこっちを見て、呑気にあくびをしている。
空はやはり、雲一つないターコイズブルーだった。(了)
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