ツルクサ

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 沙和ちゃんがキッチンで用意をする中、晃代さんはわたしにたずねた。 「誰かに性格が悪い、って言われたことを思いだしちゃった? それで悲しくなったのかな?」 「お母さんが、言います。性格悪いって……。わたしがすぐ泣いたり、失敗したりするから、いつも怒鳴られて……」 「いつも?」  わたしが深くうなずくと、晃代さんは「なるほど」と小さく言ってうなずいた。 「実咲ちゃんがつらくなるようなことを、お母さんが言うんだね」  晃代さんは、わたしの言いたいことを理解しようとしてくれている。  わたしはもっと聞いて欲しくなって、今まで取り出せなかった気持ちの端っこを一生懸命探した。 「わたしが家でコップを倒したら、お母さんはすごく大きな声で怒鳴るんです。片付けようとしても、『おまえはなにもできないんだから邪魔するな』ってもっと大きな声で言われる。泣いたら『うざい』って」 「コップを倒しただけで、そんなにひどく怒られちゃったら、実咲ちゃんは自分が悪いって思っちゃうよね。本当は悪くないのに」 「でも、わたし、性格が悪いのは本当だから……」 「どうして?」 「イライラしたのは、沙和ちゃんずるい、って思ったからなんです。コップを倒したのに、全然怒られなかった。わたしは一度失敗したら、何度も何度も怒鳴られるのに、ずるいって……」 「それで性格が悪いとは、わたしは思わないなあ。気持ちの出し方がちょっと急だっただけだよ。そういう気持ちを持つことは、全然悪くないんだよ、実咲ちゃん」  わたしは返事をしようと思ったけれど、口からこぼれるのはしゃくりあげる声だけだった。晃代さんは静かな声で続ける。 「実咲ちゃんは、嫌な子じゃないよ。お母さんに怒鳴られてつらかったね。悲しかったね。ずっと我慢してきたから、悲しい気持ちが突然出てきちゃったんだよね」  晃代さんは震えるわたしの背中をさすりながら、「つらかったね」と何度も声をかけてくれた。沙和ちゃんもわたしの手を握って、「実咲ちゃん……」とふるえる声で、繰り返し呼びかけてくれていた。  ふたりの手と声は、わたしの心のとがったところまで、優しくなでさすってくれているようだった。  泣き止んだわたしに、沙和ちゃんがココアのカップを手渡してくれた。三人で同時に口をつける。 「今度は倒さないようにするからね!」と言いながら、両手でがっちりとマグカップを持っている沙和ちゃんを見て、思わず口の端が上がってしまう。 「実咲ちゃん、笑った!」  喜んでくれる沙和ちゃん。顔をよく見ると、目の周りが赤くなっている。  私に声をかけてくれていたとき、沙和ちゃんも泣いていたのかな。  さっき、沙和ちゃんに声を荒げてしまったのに、怒るどころか、わたしのために泣いてくれた。くだらないことで泣いてる、なんてばかにせずに、名前を呼んでくれた。  ちゃんと謝らなきゃ。わたしは沙和ちゃんに向かって頭を下げた。 「ごめん、沙和ちゃん。怒鳴ったりして、ごめんね」 「ううん、ううん……」  自分の心の中を言葉にできたからか、さっきまで押し込めていたイライラが、霧になって消えていくような気がした。代わりにあたたかい気持ちが胸の中に入ってくる。  思いを打ち明けて、わかってもらえるって、こんなにすごいことなんだ。  沙和ちゃんがお手洗いに立ったとき、晃代さんが小さな声でわたしに言った。 「実咲ちゃん、お母さんが感情的に怒ったことを、そのまま全部、受け止めないようにしてね。怒っちゃうのは、お母さんの過去に問題があるかもしれないから」 「え……?」  言われていることの意味がわからなくて、ぼんやりと晃代さんの顔を見た。晃代さんは少し寂しそうな、複雑そうな表情をしている。 「こういう……家族のことまで踏み込むような話、沙和に聞かれたくないかもしれないと思って、さっきは言えなかったんだけど……」  だから、晃代さんは小声で話しかけてきたんだ。 「あの、わたし、聞かれてもいいです。沙和ちゃんに」  急に怒りだしたヘンテコな私を見ても、沙和ちゃんはわたしの手を握っていてくれた。その手のあたたかさはわたしに、自分の家族のことに向き合う勇気をくれる。  沙和ちゃんが戻ってくると、わたしはあらためて自分の話をはじめた。  すぐに怒鳴るお母さんと、わたしたちに無関心なお父さん。その中にいて毎日モヤモヤ、イライラしていた気持ち。  できるだけ落ちついて話そうと思っていたけれど、やっぱり涙がこぼれてしまう。 「実咲ちゃん、大変だったんだね。毎日怒鳴られるなんて、つらいよ……」  わたしと肩をくっつけるように寄り添ってくれていた沙和ちゃんも、涙声になっている。  晃代さんは眉を寄せて沙和ちゃんに同意した。 「親が、自分の怒りの感情を子どもにぶつけるようなことは、本当はしちゃいけない。だけどついそうなっちゃうのは、お母さん自身の子どものころに、原因になることがあったのかも」 「えっ、それって、実咲ちゃんのお母さんが、ひどい目にあってたってこと……?」  心配そうに言う沙和ちゃんに、わたしはわからない、と首をかしげつつも、思い当たることがあった。 「でも……そうなのかも。あんまりおじいちゃんおばあちゃんの話は聞いたことないけど、おじいちゃんはふたりともお酒ばっかり飲んで、よく怒鳴ってたって……」  お父さんとお母さんがお互いの父親……おじいちゃんの話をしていたとき、お酒は絶対飲みたくない、と強い口調で言っていた。 「……実咲ちゃんのお母さんも、子どものときに理不尽に怒られたことがあったから、同じように実咲ちゃんを怒っちゃうのかもしれないね」  晃代さんの言ったことを考えてみた。お母さんもわたしと同じように、怒鳴られていたのかな。 「でも、お母さんひどいよ。つらい目にあってたとしても、もう大人なのに、自分の感情をおさえられないのかな。わたしに怒りをぶつけるくらい、ずうっと昔のことを引きずってるなんて、そんなの……」  ふたりに話を聞いてもらったおかげか、自分を嫌いな気持ちは薄れてきたけれど、代わりにお母さんが嫌いな気持ちがふつふつと湧いてきた。 「子どものころに苦労しちゃうとねえ、大人になっても中身が子どものまま、ってことがよくあるの。わたしの親もそうだから」 「えっ」  おどろいて晃代さんの顔を見つめる。晃代さんは「そうなのよ」と苦笑いをした。 「わたしの母親の親は、めったに家に帰ってこない、子どものことほったらかしにする人だったらしいの。だから母親が子どものときはひとりで兄弟の面倒見てたんだよね。大人になった母親は、やっぱり家に居着かないタイプの人間になっちゃってね。やっぱりわたしが弟の面倒見てたんだ」 「そんなのって……。どうして同じことをしちゃうんだろう。親みたいにはならないって決めて、しっかりすればいいのに。大人なんだから、もっと考えて行動すればいいのに……」  衝撃的だ。わたしの大人に対するイメージががらりと変わってしまった。  わたしの顔を見て晃代さんは少し笑った。 「そうね。大人なのにねえ。小さい頃に苦労してるんだから、大人になったらしっかりしそうって思うでしょ? それが違うんだなあ。心の根っこに、愛情っていう栄養をもらわないまま大人になるから、中身は子どものままなんだよね、きっと。心の中で、わたしは愛してもらえなかったのに、って子ども心が暴れ出しちゃって、昔、親にされたことを子どもにもしちゃうのかなーって、うちの母親見てて思った」 「お母さんは……」  かすれた声で沙和ちゃんが言った。わたしたちは話すのをやめて、沙和ちゃんの顔を見る。 「お母さんはちゃんと家に帰ってきてくれるよ……」 「うん。これからもちゃんと帰ってくるからね」  沙和ちゃんを愛おしそうに見つめる晃代さんを見て、また、沙和ちゃんをうらやむ気持ちがわいてきた。だけど素直によかったな、とも思う。晃代さんが、自分自身のお母さんみたいにならなくて、本当によかった。って。 「大人になったら、考え方や生き方を変えるって本当に難しいみたい。うちも、たくさんの人がうちの母親の力になろうとしてくれたけど、ダメだった」  晃代さんの、あきらめたような表情を見てドキッとした、うちも、ずっとあのままなのかな。暗い考えに沈みそうになったとき、沙和ちゃんの前向きな声が射し込んできた。 「だけど、実咲ちゃんのお母さんとお父さんは、いけないことしてたって気づいてくれる人たちかもしれないよ」 「うん、そうだね」  晃代さんの声もつられるように明るくなったけれど、わたしはまだ不安だった。あの両親が変わるなんてこと、あるのかな。 「じゃあ、作戦会議しようか」 「作戦会議?」  わたしと沙和ちゃんの声がそろった。なんだろう? 「ちょっとでも実咲ちゃんがつらくならないようにね」  ごちそうさまを言って、食器の後片付けを手伝わせてもらい、帰りたくないけれど帰らなくちゃ……と重い腰を上げようとしていたとき、晃代さんが電話番号を書いたメモをわたしに差し出した。 「実咲ちゃん。もしおうちのことでつらくなったら、いつでも連絡して」  お母さんはずうっと怒鳴ってばかりかもしれない。お父さんもわたしに興味がないままかもしれない。  もしそうだとしても、わたしには支えてくれる人がいるんだ。わたしはメモをしっかりと両手で受け取った。 「ありがとうございます……」 「実咲ちゃん、明日また学校でね!」  と元気に言ってくれたとき、わたしはまた泣いてしまった。 「えっ、どうしたの? 大丈夫?」 「わたしね、さっき沙和ちゃんに怒鳴っちゃったとき、もう友だちでいてくれなくなるって思ってたの。だから、だからうれしくて……」 「まさか、明日からもずっと友だちだよ。たとえケンカしたって、仲直りすればいいじゃない」  当たり前のように沙和ちゃんが言う。そのまっすぐな目は、不安なわたしをひょいと引っぱり上げてくれるような力強さがあった。 「そっか、そうなんだね……」  知らなかった。一度誰かを切り捨てたら、もう元に戻らないのだと思っていた。お母さんは私を振り払うように叱りつづけて、そのあと私の心を拾い上げてくれたことはなかったから。  だけど、わたしは今日、知ったんだ。  一度振り払ってもまた手を差し伸べて包み込んでくれる、あたたかい手があるってことを。 「うん、沙和ちゃん、また明日ね」  アパートの外まで見送りに来てくれた沙和ちゃんと晃代さんに大きく手を降った。  家に帰るのはやっぱり気が重いけれど、足は不思議と軽かった。それは、頭のモヤモヤとイライラが少なくなったからだと思う。  わたしは胸の前でぎゅっと手を握りながら歩いた。沙和ちゃんと晃代さんからもらった笑顔や言葉を、ずっと離さずに抱えていられるように。
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