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ツルクサ
毎日、歩いて学校に行って、また歩いて家に帰って……。それだけで疲れる。
最近、頭の中に、もやがかかることがある。急にイライラムカムカすることもある。
理由は具体的にはわからない。病気って感じじゃない。食欲もある。ご飯もおやつもぱくぱく食べてる。放っとけば治るのかな。
同じクラスの子は、新しいメイク道具をこっそり見せ合ったり、駅ビルに服を買いに行こう、なんて楽しそうに計画を立てたりしている。どうしてそんなに活動的になれるんだろうと感心してしまう。同い年なのに、中学一年生って若いんだな、なんて人ごとのように思う。
わたしは頭のもやもやとイライラをどうにかするのに疲れてしまって、周りのことに興味が持てない。
今日も、そうだった。重い足を引きずりながら家に帰ってきた。
わたしが住んでるのは、何十年も前から建っているらしい、年季の入った平屋だ。家賃は市営住宅よりも安くてお得な物件だと、お母さんが言っていた。
家の周りの地面は土だから、雑草がどんどん生えてくる。お母さんがこまめに草抜きをしていたのはだいぶ昔の話で、現在は生え放題になっている。
玄関の横に立てかけられた自転車のタイヤに、雑草のツルがからまっていた。
この自転車はお父さんのものだ。買ってきたばかりのころは、お父さんが念入りに手入れをしていたのに、数ヵ月たったら見向きもしなくなった。
お父さんもお母さんも車で移動するから、日常生活で自転車を使うことがない。お母さんはときどき思いだしたように自転車を見て、「無駄なもの買って」と怒っている。お父さんはニヤニヤと笑って聞き流している。
ツルに巻き付かれた自転車は、息苦しそうに見える。わたしはすぐに目をそらして、家に入った。
洗濯物を取り込んで片付け、ぼんやりしていると、お母さんが仕事から帰ってきた。
「ただいまー、はあ、疲れた」
大きなため息をつきながら、お母さんは玄関先に買い物袋をどさっと置いた。
「実咲はいいねえ、ずーっと座っていられて」
おかえりを言った答えが、これだった。胸の奥がチリチリする。
どうせ嫌味を言われるのなら、出迎えなきゃよかったと思う。でも、無視していたらもっと嫌なことを言われそうな気がした。
「今日はお菓子が安かったから、買ってきたよ」
お母さんはレジ袋の口を開いて、わたしに中身を見せた。
袋の中にはチョコレートやポテチ、クッキー。夕飯の材料よりたくさんのお菓子が入っている。
玄関先に座り込んで、買ってきたものを手に取って見ているお母さんは、なんだか優しそうに見える。はっきりした笑顔じゃないけれど、ほわっと柔らかい雰囲気になる。
だけどわたしを見るときの目は、あんまり優しくない。
そもそもお母さんは、あんまりわたしの顔を見ない。こっちを見るのは、さっきみたいに嫌味っぽいことを言うときだけだ。会話自体、あんまりしない。テレビを見ながらぽつりぽつりと話すくらいだ。
それだけなら、まだ普通のお母さんなのかなと思う。他のお母さんが子どもにどういう接し方をするのか、よく知らないけれど。
普通じゃなくなるのは、わたしが失敗したり、泣いたり、文句を言ったりしたときだ。 お母さんの表情が一瞬で変わる。
つり上がった目でわたしをにらみつけ、怒鳴る。とくに泣いたときが一番怖い。
「いつまで泣いてんだ!」
と、ものを壁に投げつけることもある。わたしが泣くのはだいたい失敗をして怒られたときだから、結局は二重に怒鳴られることになるのだ。
わたしはため息をついて、自分の部屋へ戻った。大きな足音を立てると「うるさい」と言われるから、できるだけ静かに歩いてドアを閉めた。
日が暮れて、夕ご飯のいいにおいがただよってきたころ、お父さんも仕事から帰ってきた。
「今日、ハンバーグだよ」
「おう」
話しかけるお母さんに短い返事をしながら、お父さんは仕事の作業着から着替え、すぐにテレビの前の座椅子に座った。お父さんの定位置だ。その場所でテレビは見ずにスマホをひたすらタップしている。ゲームをプレイしているらしい。
お父さんは、お母さんよりも無口だ。家ではいつもスマホを触っている。指が動いていなければ、起きているんだか寝ているんだかわからない。
この間、久しぶりにお父さんと話したときは、「最新機種だ」と自慢するようにスマホを見せてきた。わたしは連絡をする相手もいないし、ネットはお父さんが使わなくなったタブレットで見るから、スマホには興味がない。ゲームってそんなに楽しいんだろうか。
夕ご飯中、めずらしくお父さんから話をはじめた。
「実咲も、もう中学生か」
中学に入って三か月はたつのに、今日入学したことに気づいたみたいだな、と思った。
「中学も思ったよりお金かかるよね。高校はどうなるのか怖いわ。制服とか鞄とか……。たった三年だけなのに、もったいない」
うんざり、といった口調でお母さんが返す。もう何度も聞かされていることだった。お母さんにとっては、学校イコールお金がかかること。あまりにも同じことを繰り返すので、わたしはだんだんイライラして、こう言ってしまった。
「パチンコ行くお金はあるのに……」
「は?」
つい、余計なことを言ってしまった。しまったと思ったときにはもう遅かった。お母さんが鋭い声を上げてこっちを見る。
「俺と母さんが稼いだ金なんだから、別にいいだろう。文句があるなら、家を出て働けばいい」
お父さんはご飯を食べながら、興味のなさそうな声でそう言った。お母さんはわたしをにらむのをやめ、「そうよね」と満足そうにうなずいた。
「だいたい高校って、卒業証書がもらえたら働き口が増えるかなってくらいのものだよね。どうせあんた、勉強できないんでしょ」
お母さん、クラスの子は、高校どころか、大学行くのも当たり前だって言ってるよ……なんてことは、とても言えなかった。お父さんは中学を卒業して働きはじめ、お母さんは高校を中退しているから。
わたしの進路はどうなるんだろう。
高校はなんとか行かせてくれそうだけれど、もし大学に行きたいのなら、お父さんの言うとおり、お金は自分でなんとかするべきなんだろうか。勉強がそれほどできない、あまりしたいとも思わないわたしのような人間に、かけるお金はないっていう理屈はわかる。
ただ。納得できない気持ちもある。当然のように大学に進学できる子がいる一方で、うちは高校進学さえ文句を言われるなんて。
親ってきっと、あてにしちゃいけないものなんだろうな。
お父さんとお母さんにとって、わたしはきっと居候している立場なんだ。こうしてあったかいご飯を食べられて、あったかい布団で眠れるんだから、文句を言うのは贅沢かもしれない、と思えてきた。
ご飯を食べ終わるのはわたしが一番遅かった。食器を流しに持って行くと、お母さんは肩をトントンと叩きながら、また大きなため息をついている。
仕事をして、ご飯を作るって大変なんだろうな……。
わたしは洗濯はできるけれど、料理はまったくだめだ。お母さんに教わったとき、「なんでこんな簡単なこともできないの」と怒鳴られ、キッチンを追い出されてからは、怖くてまったくなにもしていない。
せめて、後片付けだけでもやってみた方がいいかもしれない。
「なにか、手伝おうか」
思い切って声をかけてみても、お母さんはうるさそうに手を振るだけだった。なにもしなくていいのかな。だけど、ちょっとだけ……。
お皿を水ですすごうと手に取ろうとした。そのとき洗剤の泡で手がすべり、ガシャ、とお皿が音を立てた。
「もう、なにもしないで、あっち行って!」
お母さんは持っていたスポンジをシンクに投げつけた。近くにいたせいでお母さんの叫び声がじかに体の中に入ってきた気がした。ショックで、自然と涙がこぼれ落ちる。泣きたくなんかないのに。
「また泣くのか、うざったい!」
どうしていつも、そんなに怒るの? ちょっと手をすべらせたことが、そんなに悪いことなの? もしかしてわたしっていう存在自体が、悪いものなの……?
お母さんの声はお父さんにも聞こえていたはずなのに、なにも反応がない。いつもそうだ。スマホに夢中で、自分だけの世界に入りこんでいる。お母さんが怒鳴ってても、関心なんてないんだろうか。わたしはこんなに悲しんでるのに。
そう思うと急にイライラが爆発した。わたしは自分の部屋に入るとき、ドアを思い切り乱暴に閉めてしまった。
その音に反応して、お母さんの怒鳴り声が耳をつんざく。
「嫌味ったらしいドアの閉め方して。あの子、性格ねじ曲がってるよ!」
両手で耳をふさいでもまだ聞こえるから、枕で頭を隠し、さらに布団もかぶった。
しばらく部屋でじっとしていると、玄関のドアの音と、車のエンジンがかかる音が聞こえた。きっとふたりでパチンコに行くんだろう。ふだんは土日だけで、平日には行かないようにしてるのに……。
やっぱりわたしのせいなのかな。わたしはなにをするのも要領が悪くて、無駄に泣いてばかりで、性格が悪いから、だからお母さんはあんなに怒るのかな……。
答えはわからない。
自分が今、どんな気持ちなのかさえ言葉にできない。思いつくのは、イライラともやもや。そんな言葉では全部を表現できないから、いつまでもお腹の中でどろどろしたものを混ぜ続けている。
何度か枕を殴りつけて気を晴らそうとした。だけど逆効果だった。どろどろは増え続けるばかりだ。
気を紛らわそうと図書館で借りた本を開いたものの、文字が文章として頭に入ってこない。わたしはため息をついて、本を遠くへ押しやった。
本を借りるときは、この本を読みたいって思っているはずなのに、毎回、ほとんど読まずに返却してばかりだった。
読書をする集中力がないからなのかな。それとも、この本がわたしには難しすぎる内容だから? 表紙には「トラウマがわかる本」と書かれている。理由は分からないけれど興味がわいた、心理学の本だ。興味があることにも集中できないなんて、わたしって、どれだけダメなんだろう……。
こういうときは寝てしまおう。布団を頭からかぶってひたすら眠気が来るのを待った。ようやくうとうとしかけたころ、玄関のドアが開く音で起こされた。
「実咲ちゃん、寝てるの? お菓子いっぱいあるよ」
お母さんの声で目が覚める。家を出る前とは全然違う、妙に甘ったるい声だった。パチンコ、勝ったのかな。
お菓子ならスーパーでたくさん買ってきたのに、パチンコ屋でも交換してもらってきたらしい。
景品をわたしに見せるお母さんはやっぱり優しい顔をしていて、わたしも笑ってチョコレートを受け取った。
お母さんとお父さんが「今日はついてたね。前の人がつぎ込んでたから、すぐに出た」と楽しそうに会話しているのを聞きながら、わたしはテーブルいっぱいに広げられたお菓子をちょっとずつ食べた。
パチンコの話が終わると、お父さんはいつになく弾んだ声でこう言った。
「実咲、ゲーム買ってやろうか。本体もいるな」
いきなりどうしたんだろう。意味がよくわからなくて、反応ができなかった。
ゲームに興味がないわたしは、ゲーム機を欲しいと言ったことなんて一度もない。前にもいきなり「スケボーを買ってやろうか」と言われて混乱した。運動が苦手なわたしからは遠すぎるものだったから。
わたしが答えに詰まっていたとき、お母さんがあきれて口をはさんだ。
「使わないものにお金かけても仕方ないじゃない。お父さんがいつもゲームやってるスマホがあれば充分でしょ」
「そうか」
お父さんはとくにこだわりがなさそうにうなずいた。わたしになにかを買いたいって思ったわけじゃないみたいだ。
パチンコに勝っていい気分だから、人になにかを買ってもっといい気分になりたかったのかな。そういうことに、わたしは利用されてるだけなのかな。
考えると頭のもやは増えたけれど、食べ終わってからもしばらく両親と一緒に食卓にいた。夕ご飯の時とは違う、あたたかくて和やかな雰囲気。こういう空気は貴重なものだ。だから全身で受け止めていたかった。
「おやすみー」
「おやすみなさい」
上機嫌なお母さんとあいさつを交わし、部屋に戻る。
さっきのあたたかい空気をずっと感じていたかったけれど、寝て起きたらまた元通りだ。明日に持って行くことはできない。
そう思うと、疲れがどっとやってきた。やっと、一日が終わる。
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