愛の交差

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 このまま一生、劣等感を抱えながら生きていくのは嫌だ。  玄関の扉に鍵をかけ、ふらりとした足取りでその場を離れる。  立ち上がった琴音はキッチンへ入った。夕飯の支度か、と智之はリビングのソファに腰を沈めた。テレビをつけて、ニュース番組を選択する。  迅は今、琴音の実家にいる。話し合いが終わったから迎えに行った方がいいのだろうか。もう寝ているだろうか。明日は月曜日なので、学校があると思いきや、カレンダーを見ると振替休日と琴音の字で書きこまれている。そういえばこの間、休日に課外授業があったと迅が言っていた。その振替か。ならば迎えは明日でもいいだろう。今日はもう寝ているはずだ。  ただ迎えが面倒なので、それらしい言い訳を考えて、琴音が聞いてきたときの回答にする。  琴音はキッチンにある棚を開けて目当てのものを取り出す。  数日前、研いだばかりの包丁だ。切れ味は良い。  ぴかぴかと光るそれを右手で握り、ふらりふらりと智之の背後に立つ。  一生このままは嫌だ。  ATMのくせに浮気するなんて。結婚してやったのに、逆にお前が妥協するなんて。  今まで何のために頑張ったのだろう。  専業主婦になりたかった。働きたくなかった。  でも家事は嫌い。育児も面倒だった。  でも人並みの生活はしたい。  ママ友や同級生のように、子どもが二人以上いて、旦那と協力して家事育児をして、休日は絵に描いたような家族サービスをしてくれる旦那。  理想だった。それがよかった。  本当はそれが蓮だったらよかったけれど、弟だからできない。何かあれば、また警察を呼ばれる。  仕方ないから、智之でいい。そういう人並みの、ありふれた生活をしたかった。  幸せな家族。良き旦那。  そして偶に蓮の話が聞けたなら、それでいい。  人から羨ましがられる日常が欲しかった。  それで、妥協してやろうと思った。  蓮と幸せになれないのなら、せめて二番目の男と並の生活をしたかった。  妥協した結果がこれだ。  智之とこれから先、一緒に暮らしてもそこに愛はないどころか、屈辱を味わいながら日々を送ることになる。  そんなもの、望んでいない。  智之がいなかったらどうだろう。  迅と二人。  離婚してシングルマザーになるのと、未亡人は全く違う。  後者の方が儚げで、響きもいい。  同じシングルマザーでも全然違う。  迅と二人で実家に帰ろう。  そうすれば蓮の近況はすぐに入ってくるし、あの女と別れさせることだって可能だ。  テレビから流れる綺麗な活舌を耳に入れ、画面に集中している智之の首をめがけて、思い切りそれを刺した。 「ぐああ!」  突然走った激痛に、腹の底から虫を出すように呻く。  骨に突き刺さったのか、筋肉に挟まったのか、包丁の柄越しに堅いものを感じる。  一撃では息を絶やすことはできない。  項に手を当てようとする智之より早く、二度目を刺した。  汚い声を出しながら倒れ込む智之。  ソファをまわりこんで、床に蹲っている智之に馬乗りになる。  男の力には勝てないと思っていたが、一刺しが効いているようで力ない抵抗ばかりしている。 「あんたさえ!いなくなれば!」  首にある動脈を切れば人間は死ぬ。  いつかサスペンスのドラマで得た知識を引っ張り出し、首を集中的に狙う。  声帯が潰れたのか、聞き慣れた声は口から出てこない。  それでもまだ動いている智之。  琴音は髪を振り乱し、狂ったように刺して切りつけてを繰り返す。  何回刺したか、切りつけたのか、記憶にない。  床に腕が落ち、全身から力が抜けている智之から離れる。  その姿は素人目でも死んでいると分かる。  智之が死んだ。  奈津江を死なせてまで手に入れた智之を、この手で亡き者にした。 「はは、は」  迅と二人で。なんて思い描いていたが、血まみれの智之と血まみれの手元を見て悟る。  逮捕されて、終わりなのだと。  喪失感で心は空になり、頭は冴えている。  きっと、警察が真っ先に疑うのは妻だ。  ここから逃げ出したところで、どうにもならない。ここではないどこかで生きていけるとは思えない。知らない男に匿ってもらうことくらいはできるかもしれないが、逃げ出したら蓮とは二度と会えない。逃げ出さなくても蓮とは会えない。  刑務所へ行き、出所したところで殺人者というレッテルを貼られ、蓮は会ってくれないだろう。人殺しはお断りだと。警察を呼ぶぞと。  逃げても、逃げなくても蓮と会えない。  会いたい、会えない。そんな葛藤と共に生きる。 「蓮、蓮」  こんなはずじゃなかった。  蓮と一緒になりたかった。  できないから、智之と普通の生活をしたかった。  それもできなかった。  もういない奈津江の顔を宙に浮かべる。  すぐに散る桜のような女だった。弱々しく、今にも折れそうな奈津江。死後に力を発揮するとは思わなかった。  今、こうなっているきっかけは奈津江だ。  奈津江さえ自殺しなければ、あの女が琴音の領域に侵入してくることはなかった。  そして思い出す。  奈津江が自殺したのは、自分が原因だと。  ならば、今こうなっているのは、自分のせいか。  なんだか、どうでもよくなった。  自分のせいだとか、奈津江のせいだとか、智之のせいだとか、あの女のせいだとか、もうどうでもいい。  結局、なんだっけ。  何を考えていたんだっけ。  あぁ、そうだ。  蓮を愛している。  ただそれだけ。
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