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「じゃあねー」
シートにちょこんと座る二人に軽く手を振って雪美は電車を降りた。
金曜日の夕方を迎えようとしている駅前は一週間前とほとんど変わってないようだった。盛りを過ぎようとしている夏の日差しも、道行く人々の足取りも、歩道に影を落とす街路樹の姿も。
雪美は見慣れた家々の姿を見まわした。斜めの少し黄色味を帯びた日差しを受けて、立ち並ぶ家も、樹木も、歩く人たちもどことなく楽しげに見える。
別にこれから楽しいことがあるわけではない。閑散としているのに、どことなく週末の活気を予感させくれるような景色。その家並みを見ながら歩くだけで浮き浮きしてくる。何か今にも素敵な出会いがありそう。
「あの、済みません」
すぐ後ろで声がして、雪美は驚いて振り返った。
「ここら辺にお住まいの方ですか」
雪美は目をぱちくりした後、小さく頷いた。
話しかけてきたのは金髪で色白の大学生風の男、ではなくて、日に焼けた土木作業員のお兄さんといった感じの人だった。サングラスをしているから表情は読み取れないが、言葉遣いは優しい。よれたTシャツから出た腕は黒くて太く、作業ズボンとスニーカーは埃にまみれている。
雪美は愛想笑いを作った。先週のボンボンと違って、この人は本当に道でも尋ねるのだろうと思ってのことだ。
ところがその逞しい体つきの男の発した言葉は、雪美の予想を大いに裏切った。
「お前が悲鳴を上げたり逃げようとすればこの場で刺す」
そう言って男はTシャツに入れた手に握られたナイフをちらりと見せた。
雪美はナイフの一部しか見えなかったが、大体の見当はついた。そんなものを持っているのを警官が見たら一発で捕まってしまうだろう。それほど大きくて特殊なナイフだった。そんなナイフをTシャツの下に入れていて転んだら危ないなどと、非常事態だというのに下らないことを考えた。
「これは脅しじゃない。計画が失敗したら必ず報復する。報復というのは、お前やお前の家族に悲劇が訪れるということだ。冷静になって考えてから行動してくれよ。じゃ、あの車のところまで歩いていけ。もっと明るく。顔が引きつってるぞ」
ナイフを突きつけられた状態で明るくも何もない。それに周りに見ていそうな人もいないし。しかし雪美は男の言うように無理矢理な笑顔を浮かべて車へと歩いていった。
道端に停められた車は白くてピカピカの外車、の数十分の一の価値しかないと思われるボロで、あちこちがへこんで、錆まで見えている。
これじゃ数十分の一じゃなくて数百分の一だ。
雪美が車の査定をしていると、バックシートに押し込まれた。
そこにも若い男が一人。逃げ出さないように見張る役なのだろうが、少しも雪美の方を見ようとしない。
雪美を連れてきた男は運転席に乗り込むと車をスタートさせた。
鈍い光を放ちながら車は通りの先に消えた。
「雪美、元気になってよかったねー」
夏香は電車の窓越しに流れていく街並みを見ながら言った。
「本当は誰か好きな人がいるんじゃない? もしかしたら今頃は男の人と一緒にいるかも」
優樹菜が夏香に言う。
「まっさかー」
「雪美に限ってそんなことはないか」
夏の夕方の日差しはまだ高い。
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