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森口佳一は車を滅茶苦茶に飛ばした。と言っても道は混んでいるから、本人が焦ってアクセルを踏んだりブレーキを掛けたりしているだけだ。
会社にいる時に妻の友里恵から雪美がまだ帰ってこないと連絡があった。変な男に捕まって、どこか引きずり回されているのではないかと一瞬考えたが、甘やかして育てた一人娘の割にはしっかりしている。変な男に付いていったりするはずがない。もしかしたらすでに彼氏がいて、デートが長引いてしまっただけかもしれない。しかしいくら電話しても繋がらないと友里恵は心配している。わざわざスマホの電源を切ってあるのか?
そんなことを考えていると、ついついアクセルを踏む足にも力が入る。早く家に帰って状況をはっきりさせなければならない。変質者の手に掛かって今頃は・・・・あるいは誘拐でもされて・・・・そんなテレビのドラマみたいなことはないか。学校の友達とのおしゃべりが長くなってしまっただけだろう。
でも、やっぱり電話が繋がらないというのは・・・・
やっと気分が落ち着き、雪美は部屋の中を見まわした。八畳くらいの部屋の床はフローリングがむき出しで、テーブルと椅子が一つずつしかない。車と同じようにボロボロで手入れのしていない家だ。どこか下町みたいなところに連れてこられたのはわかったけれど、そこが東京のどの辺かわからない。
さっきまで外で子供たちの声がしていた。
今、窓は黒く塗り替えられて時折車の走る音や人の話し声がするだけだ。それらはすぐに遠くへと消えていく。
お父さんやお母さんは心配しているだろうな。
雪美は男を見た。あれ以来口を開こうともしない。明かりの下の椅子に座り、雑誌をぱらぱらとめくっているだけだ。
床に散らばった教科書とノートを拾い集めると日本史の教科書を広げた。受けられるかどうかわからないけれど月曜日に小テストがある。他にすることもないし。
裸電球が暖かい色を投げかけている。二人の息遣いの中で雪美と男のページをめくる音がカサカサと重い部屋の空気を揺らした。
不意に男が立ち上がった。
雪美はびくっとして体を固くする。
男は雪美に一瞥もくれないで部屋を出ていった。
雪美はフーッと長く息を吐いた。
「何だか疲れるな」
男が戻ってきた。
雪美は男を睨んだ。
何を勘違いしたのか、男は玄関の左側を指差す。そして持ってきた座布団を投げた。
次に投げられたパンと紙パックのジュースがその上に上手く着地した。
「あら」
身をよじろうとして雪美は床に転がった。神経が無くなってしまったと思えるほど足が痺れていた。
あらら。だらしがないぞ。でも、あいつも。
雪美はちらりと男を見た。
男もさっきと同じ姿勢で雑誌をめくっている。
あいつも変な奴。無神経なくせに変なところに気が回るんだ。誰がトイレの場所を訊ねたのよ。ま、そのうち必要になる場所だからいいんだけど。
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