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先週、環と登校した道を、今朝は時間をずらして一人足早に通り過ぎる。
雨よ、降らないで。
そんな私の思いとは裏腹に、空は分厚い雲で覆われ、腹が立つほど、みるみるうちに暗くなって湿気を含みだしている。
雨が降る。
その気配に気が気じゃなくて、もうどうやって一週間を過ごしたかなんて覚えていない。
とにかく環と鉢合わせしないように小さく縮こまって、目だけはあっちこっちに忙しなく動かして、友人から『挙動不審』と怪訝な顔をされた。
雨の匂いがした。
放課後までは降らずに持ち堪えた雨が、今の今まで我慢していたくせに、昇降口に立った途端にあっさりとその姿を惜しげもなく晒しだした。
この雨脚の強さは、まるで空にアッカンベーと舌を出された気分。じめっと湿り気をおびた空気が体に重たくのしかかる。
今日の園芸部の活動はなし。
下駄箱から靴を取り出して、ローファーが濡れるなあとぼんやり思いながら、気分はますます下がっていく。
「ほら! 雨だよ、環!」
可愛らしいサクラの声と呼ばれた名前に、ビクッと肩をすくめた。
下降していた気分は真っ逆さまに、どん底へと向かう。
「おおー、降ってんなー」
ローファーを掴んで立ち尽くす向こう側。背丈以上の高さのある下駄箱の向こう側で、二人の気配と声がする。
「約束ちゃんと覚えてるよね?」
「あー、でも俺、今日傘無いや」
「ふ、ふ、ふ。じゃーん! ちゃんと折り畳み傘持ち歩いてまーす」
「折り畳み傘だと小さくて濡れんじゃね?」
「いーの」
「でも、俺、今日は……」
「環、お願い」
ぎゅっと目を瞑ったところで耳は塞げない。分かっているけど、やっぱり受け入れられなくて、どこか環の返事に微かな希望の糸を繋いでいる自分がいる。
「……分かった、分かったから。そんな泣きそうな顔するなよ」
でも、それはいとも簡単にプツリと切れた。
昇降口から出た二人は、小さな傘の中に体を寄せて収まった。
なんだ、やっぱり二人がすっぽり入るのなんて無理があるじゃん。どこまでも優しい環は、サクラが濡れないように半分以上傘からはみ出ている。
ピンクの水玉模様の可愛い傘が、右へ左へと揺れる。
手に持っていた傘は、いつしかブラブラと力無くぶら下がるだけの代物になり、それをさすことなく雨の中へ吸い込まれるように歩き出す。
雨はあっという間に髪を濡らし、服を、そして肌を濡らしていく。
雨よ降って。
降って降って、もっと降って。
ゴクゴクと乾いた喉を潤すように、渇ききっていた地面がぐんぐん雨を吸い込んでいく。
でも、それも束の間。いくら渇いていたとはいえ、器に入る量など最初から決まっていて、一気に注がれた反動もあって瞬く間にそれは溢れ出す。
気づけばそこかしこに水溜りができて、激しく打ち付ける雨を弾き返しながら下へ下へと流れていく。
そんな、目も開けていられないくらいの雨に向かって顔を上げた。
雨よ降って。
降って降って、もっと降って。
「……か」
これは雨だって、涙なんか流してないって、他の誰でもない私自身に言い聞かせたいから。
雨よ降って。
降って降って、もっと降って。
もう、どれだけ降ったって、私には関係ない。
「環のばかあぁ……」
雨が降ったら、返事するって言ったじゃん。
期待してるって笑ったじゃん。
約束したじゃん。
なんで告白なんてしたの。
簡単に好きだなんて言わないで欲しかった。
本気にした私が、ただのバカだった?
雨に向かって無駄な抵抗をしたところで、堰を切ったように感情が溢れ出してしまうから世話はない。
もう目すら開けていられない。
「うううぅ――……」
雨の日のために、ちゃんと用意していた言葉は行き先を失って、雨とともに流れて地面に染み込んで消えていく。
「好き、なのに――……」
全部全部、雨と一緒に流れ出てしまえ。
流れ出した言葉の行き先は、もうどこだっていい。
「た、まき、すき」
そう呟いた瞬間に、顔めがけて打ち付けていた雨が、やんだ。
でも変わらず雨音は聞こえていて、冷えた体にはやっぱり変わらず、容赦なく雨が打ちつける。
けれど、頬だけがやけに温かい。
そっと目を開けると、環が私の頬を両手で包み、上から覗き込んでいた。
「うん。分かった」
すでにずぶ濡れの私たちを、さらに強まる雨が、まるで包み込むみたいに白い飛沫を舞わせる。
こんなに至近距離で顔なんてまともに見れないのに、環にがっちりと頬を掴まれていて逃げられそうにない。
逃げる理由もないけれど。
「……サ、サクラは?」
「彼氏が迎えに来たよ」
「環と、サクラが付き合ってるって聞いた」
環が、いつになく真剣な目で私を見下ろす。
「ただの噂。そんなん信じたの? 俺、そんなに信用ない?」
「でも、だって、倉庫の横で仲良さそうだったし、相合い傘してたしっ……」
ああ、と呟いて環が瞬きをすると、まつ毛から雨粒が二、三滴落ちて私の頬を濡らす。
「サクラの彼氏は他校の俺のダチ。ケンカしたんだと」
「……え? ……そ、そう、なの?」
「だから間に入るためにサクラと一緒に行ったけど、莉子が見えて、ほったらかしてきた。どうせすぐ仲直りすんだろ」
ホッとして、強張っていた肩がストンと落ちて、同時に全身の力が抜ける。辛うじて立っていられるのは、環が私を捕まえているから。
「それから、言ったろ? 早く雨が降るように、たくさん“るてるてボウズ”作るって。先週、放課後に作ったそれ、今、引くくらい俺の部屋にぶら下がってるから」
「……ふ、ふふっ」
「雨乞いダンスもめちゃ踊った。後で動画見る? 笑えるぞ」
「うん、見たい。……そっか、だから雨、降ったんだね」
「おう。見たかこれが俺の底力よ」
「うん。……返事、すぐにしなくてごめんね」
「ああ、スパルタ農法ってやつだろ? さすが園芸部長だなー。やられたな、愛が深まりすぎた。でもこれで俺もやっと潤う」
環の優しく微笑む瞳に吸い込まれそうだ、と思ったその時、空から降ってきたのは待望の雨つぶたちと、それから優しいキス。
降って。
降って降って、もっと降って。
「……これからもスパルタ農法でいこうかな?」
「や、それはもう勘弁して」
二人ともずぶ濡れで笑い合った。
きっと、腕にぶら下がったままの傘は呆れ返っていて、もう自分の出番は無いのだと悟って静かに雨水を下へ下へと垂らしていく。
※
次の日。
私たちは、やっぱりお揃いで風邪を引いて寝込んでしまった。上がった熱は雨のせいか恋のせいか分からないくらいクラクラして。
けれどもう、その全てが愛おしく思えて、やっぱりクスッと笑えて、そしてまた熱が上がっていく。
いつの間にか、雨音は恋の音になって。
ときに涙も恵みになって。
瑞々しい恋の蕾を大切に育てて。
これから二人で、たくさんたくさん綺麗な花を咲かせていきたい。
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