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環と学年一の美女、サクラが付き合い出したという噂を耳にしたのは、その日のお昼休みだった。
そんなはずは、無い。
友人の友人経由で耳に入ってきたその噂は、幸いにもお弁当を完食した後だった。
だから大丈夫、大丈夫。
ショックを受けて食欲が無くなったところで、お腹は既に満たされている。じゃなくて、サクラと環が付き合い出したなんて、ただの噂だ。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。
取り乱す必要はないはず。だって今朝、私は環とある約束を交わした。
――雨が降ったら、告白の返事……するから。
あの時の環の照れた笑顔は間違いなく私に向けられたものだもの。
そう、心の中で否定しながらも、ざわざわする胸の音は聞こえないフリもできなくて、授業中に何度もペンを落っことした。
※
ぼんやりと授業をやり過ごし、ぼんやりと園芸部の日課である花壇の水やりを熟すため、運動場脇の倉庫へ向かった。
これでも園芸部の部長の端くれだ。カラカラに乾いた花壇の土を見ると、“ぼんやり”なんてどこかへふっ飛んだ。今すぐに水をあげたくて急いで倉庫内にある、巻かれたホースに手を伸ばす。
「たーまき。なに、それ?」
声は倉庫の窓から入り込んだ。
サクラの声が環の名前を呼んだ。学年いちの美女は声も可愛くて、男女問わず一度聞いたら耳から離れないから間違いない。
ぎくりとして私はその場に固まった。
「お、見る? じゃーん」
「んふふ、なんかブサイク」
倉庫横のプールへ繋がる通路から聞こえる。
「そう? 上出来だと思ったんだけど」
「うーん、ふふ。じゃあ、ブサカワ? ふふふ」
「じゃあってなんだよ。それに笑いすぎ」
「んふふふ。……で、なんでそんなに作っての?」
「大地を潤すため」
「あはっ、なにそれ」
「このままじゃオレは干からびて死ぬ」
「やだー死なないで」
盗み聞きはいけない。じわりじわりと後ずさる。
「ねえ、環。サクラが潤すの手伝ってあげよっか……?」
電気が体中を巡ったようにピタリと動けなくなった。
「おお、マジで?」
ドク、ドク、と、心臓が壊れそうなほどうるさく鳴る。
「うん、いいよ。……それでね、サクラのお願いも聞いてくれる?」
「ん?」
「今度雨が降ったらさ、相合い傘、したい」
待って。今度雨が降ったら、私は環に告白の返事をする約束を――……。
倉庫の中の埃っぽい匂いに意識を集中させて、平常心を保とうとしたけれど、そんなの、気休めにもならなかった。
「相合い傘? ……いやお前、それは」
「ね、お願い」
「……全く、しょうがねえなあ。分かったよ」
目眩がした。
どうかどうか、何かの間違いであってほしい。と、両手を合せて祈る前に、環の口から出た承諾の言葉が、さらさらと手の中を流れていってもう拾えない。
「やった! 約束だよ」
全部の音が遠退いていく。
なんでそんな約束するの。
私との約束はどうなるの。
二人は本当に付き合ってるの?
あの告白は、なんだったの。
全部の音が遠退いていくのに、野球部のバットが鳴らす高い金属音が、耳鳴りみたいに鼓膜にへばりついてどこまでも纏わりつく。
環と交わした約束が、その耳鳴りの奥で嫌悪感と吐き気を巻き上げながらループする。
今朝、にらみ上げた空は、腹が立つほど青くて澄んでいて、それで――――……。
『おす』
『た、環。おはよ』
『何見てんの。鳥? 飛行機?』
『えっと、……空』
『あはは。まあ、空だな。空になにか用だった?』
『あ、雨がね、降らないなって』
『……ああ、まあ、そうだなー』
『今年は梅雨がすぐ開けちゃうかもって』
『……あー、そうかもな』
『こ、このままじゃ、干からびちゃうね』
『なにが?』
『なにがって、植物とか農作物。今朝のニュース見なかった?』
『んなこと心配したってしょうがないっしょ』
『んなことって……』
『んなこと、だろ?』
『んなこと、じゃないよ。大事なこと、だよ。私は園芸部の部長として……』
――環の熱い、視線……。
『“大事なこと”、ね。じゃあ聞くけど、目の前の俺が今にも干からびそうになってんのは大事なことじゃねえの?』
『え、えと……』
『いつになったら告白の返事くれんの? 待ちくたびれて今にも干からびそうなんだけど?』
――待ちくたびれたって、そんな、昨日の今日だけど。
『そ、それは……』
『それは?』
『あ……』
『あ?』
『あ、雨が降ったら教えて、あげる……』
『……へ? 雨?』
――心臓が口から飛び出そうで、コクコクと賢明に首を縦に振るしかできなかった。
『……言ったな! 絶対だかんな。焦らすからには期待するぞ。もし断ったらチューするからな! オッケーでもするけど! よし、“るてるてボウズ”作りまくって、雨乞いダンス踊りまくってやる」
『……え、ええええ……! なななに言ってんの!』
『へっへー!』
――あの時の、環の笑顔が霞んでいく。
サクラと話す環は、全然知らない人みたいだ。
環が。
環が、私のことだけを考えて待っている時間とか、表情とか態度とか、勿体なくて。もっと見ていたくて、熱を含んだ瞳でもっともっと私を見ていてほしくて。
それだけだった。
ズルくて、しょうもないことをした。
だからバチが当たった。
私は一体何を、そんなに勿体ぶっていたのだろう。自分の気持ちの輪郭はとうにできていたのに。見たくないものも聞きたくないことも全てが私に覆いかぶさってくる。
雨よ、降れ――……?
降ってほしかったけど、もう二度と降らないでほしい。
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