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序章:製薬会社の孫娘
<01:白い天井>
何年、この天井を眺め続けただろう。
あと少しで二十五歳を迎えるのだから、もう二十四年は眺めているのか。
十八歳で手術を受け、今は月に一度の検診でよくなったことを思えば、回数的には大きく減ったと喜ぶべきだろう。それでも六年間。指示通りに検診日を守り、こうして拘束される人生を受け入れていることを褒めてほしい。
「違う、なんであの二人の顔が」
褒めてほしいと浮かんだ顔が、あまりにもハッキリし過ぎていて、胡涅(うね)は慌てて彼らを頭の中から追い払う。
「退屈すぎるのが悪い。今さらだけど、この部屋、本当に異常だし。なんで今まで平気だったのか、私が私に聞きたい」
無機質に見えて、不均等な白い壁紙。床から側面を伝って天井をおおう同系色の白い張り紙は、永い年月を経て、ほんの少し染みを浮き上がらせている。
「…………退屈」
格子付きでもいいから窓がほしいと思う。
そうすれば、飽きるほど長い点滴の時間も、もう少し楽しみが増えるのに。
「あと何時間だろ。二時間くらいかな?」
自分の左腕から伸びる細い管の先に、ため息がこぼれ落ちる。
昔は、これが日常だった。今でこそ月に一度のペースで許されているが、手術を受ける十八歳までは馴染みの天井を毎日眺めていた。毎日、毎日、腕から伸びる細い管に血を抜かれ、栄養を流し込まれ、生命維持を操作される。
外の世界を知ることなく、ただ無情に生かされるだけの日々。小学校、中学校、義務教育とは名ばかりで、通った数は両手で足りる。
外に出るのはキライだった。
人は普段見ないものを稀有な瞳で盗み見て、ありもしないことを吹聴するくせに、本当に苦しいときは遠巻きに困った顔をするだけ。
集団生活はキライ。ゆえに、友達はいない。クラスメイトの名前も顔も思い出せない。家庭教師も最初だけで、途中から通信教育に変わった。便利な時代。接点のある人間は祖父と担当医だけという、異常な環境だった。
それでも、疑問は持たなかった。
あまりに当たり前に過ごしていると、それしか知らないでいると、比較をもたない感覚は、異常を正常と思い込む。
「早く終わらないかな」
病弱体質。一言で説明がつく今の現状に嫌気がさす。なんでも、生まれたときから特異体質で、現代医学で完治の見込みはなく、それは年々悪化していく病気だった。血液型も特殊らしい。
世界でたったひとつの血。それは輸血が出来ないことを意味する。
「見ようと思ってた配信、明日だったから明日がよかったなぁ」
ポツポツと落ちる点滴の雫を眺めながら、増えていく一人言を消化していく。
「電子書籍は疲れるし、本はないし、眠くもない。暇すぎる」
身体が弱いのに輸血が出来ない。いつかくる大手術のために、幼い頃から自己血を溜めるのは当然で、抜かれた血の代わりに、よくわからない成分がつまった栄養素を流し込まれる。
その『いつかくる大手術』は、ちょうど六年前にきた。六年前の手術で、これまでの自己血はすべて失われた。そのとき、十八年溜めた血が、わずか七時間で無くなったのだから消失感は計り知れない。
また一からやり直し。
いくら大人になったとはいえ、一日で抜ける血の量は決まっている。
「…………暇すぎて、死にそう」
血を抜いたから頭もうまく回らない。
今は栄養素を体内に入れているところ。あと二時間はかかるに違いない。じっと耐えるには、誰もいない静寂がしんどい。
「何も機材とかないんだから、電子書籍専用とかじゃなくて、携帯くらい許可くれたらいいのに、お祖父様のケチ」
そうすれば通話もメッセージもゲームも可能になるので、時間は勝手につぶれる。はず。「はぁ、暇つぶし?」「我らをそのような目的で消費するとは」とかなんとか不機嫌そうな顔が浮かんだが、胡涅はそれもさっさと追い払う。
「もー。毎月、この時間が苦痛すぎる」
内容が制限された配信も電子書籍も不要でしかない。その辺、片手で行う暇つぶしには最適なのに、彼らと携帯に関しては「研究室に持ち込み禁止」だそうだ。
研究室。そう、ここは病院ではなく、棋綱製薬(きつなせいやく)特別研究室となる。
溺愛を通り越して、心配症というより過干渉に近いのは、両親ではなく祖父。棋綱製薬会長であり唯一の肉親、棋風院 堂胡(きふういん どうご)。
由緒ある歴史を紡ぐ製薬会社、それが家業。棋風院家は有数の金持ちとして名を馳せていて、代表として君臨する堂胡は孫娘のために、あらゆる手を尽くして生命維持を試みている。余計なお世話だと思うようになったのは、反抗期のなかった第二次成長期を過ぎた二十代半ばの「今」だと言えば、きっと世間から笑われてしまうだろう。
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