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<02:新しい担当者>
深窓の令嬢。小説じゃあるまいし。
この環境を二十五年近くも異常だと思わなかった感覚に驚き、そして普通は「病院」という場所に通うのだと今ならわかる。
世間知らずの非常識な箱入り娘。そっちのほうが、ずっと現実的。
「点滴するだけなのに、部屋、広すぎなのよね」
キングサイズの高級ベッドとおしゃれなベッドチェスト。好きな映像配信が見放題といいつつ、未成年専用の番組しか配信されない備え付けモニター。絵本と平仮名がたくさん連なる小学生用の小説しか閲覧できない電子端末。恐らく、まともに会えない多忙な祖父は、いつまでたっても孫を赤ちゃんと思っているのだろう。
それでも楽しみにしてしまう配信があるくらいには、幼稚なのかもしれないと、胡涅は人知れず息を吐く。
「本くらい持ってくればよかった」
そうして、暗記するほど読み飽きた電子書籍の端末を操作する。
それ以外は何もない部屋。窓もない、棚もない。出入り口は、部屋のすみにある扉がひとつだけ。
点滴を含めていいなら、無機質な医療道具がある。
昔からある監視カメラにはもう慣れた。
咳き込んだり、苦しんだりすれば、控えている研究員が慌てて飛び込んでくるだろう。それこそ十八歳で手術を受けるまでは頻繁に、彼らの顔を見ていた気がする。
だから、緊張感を隠せない「し、ししし失礼します」という上ずった声に、笑ってしまったのは許してほしい。
「どうぞ」
「し、ししし失礼します。胡涅ちゃんいますか?」
「はい。えっと、あなたは?」
見覚えがあるような、ないような。ちゃん付けで名前を呼んでくるのは、研究員では珍しい。大抵は「様」をつけて他人行儀で呼んでくる。
「あ、ぼ、僕は、保倉 将充(ほくら まさみつ)と言います。き、今日から胡涅ちゃ……胡涅様のた、担当に」
何をそんなに怯えているのか。似合わないメガネに白衣、手には銀製のお盆。たぶん錠剤。今日は一体、何種類飲まされるのだろう。考えるだけで気が滅入る。
「そんなところで立ってないで、早く入ったら?」
薬を運ぶついでに、今日から配属された新しい担当が挨拶に来た。という認識で間違いないだろう。胡涅の主治医は棋綱製薬顧問の保倉医師だが、研究員だと言われる担当者は不定期に変わる。手術後は担当の研究員はいなかったはずだが、担当、保倉。その響きに、胡涅の視線は顔見せに来た新人に注がれていた。
「もしかして、保倉先生の息子さん?」
「え、あ、はっはい。保倉昌紀(まさき)は父です」
「やっぱり。名前からしてそうじゃないかと思った。じゃあ、同じ保倉先生になるね」
笑いかければ、安心したのか。保倉将充と名乗った新しい担当者は、扉を閉めてゆっくりと近付いてくる。
「覚えてない、かな?」
「……え?」
「小さいころに何度か会ってるんだよ」
「そうなんですか、すみません」
「いや、いいんだ。あまり存在感がないのは自覚してる」
随分と弱そうだなと無意識に思ってしまった。
最近、物騒でいかつい男たちに目が慣れているせいかもしれない。勘違いさせると悪いので、弁明するなら決して、一般体型の先生を悪く思ったつもりはない。
『彼ら』が、異常なのだ。
胡涅は自分の側仕えとして雇われた世話役の二人の男を思い浮かべる。
「朱禅(しゅぜん)、炉伯(ろはく)」
身長二メートルを超え、手足も大きいため、服はもちろん手袋や靴も特注品。いや、鍛えられた体躯はもはや壁といっても過言ではない。顔だけを見れば、そこら辺のアイドルやモデルでは太刀打ちできないくらい整った顔立ちをしているのに、彼らはニコリとも他人に愛想を振り撒かない。
それでも異常なほど人目を集める。むしろ、白髪に色付きの瞳をもっている違和感のなさが、存在感を浮き立たせるといっても過言ではない。遠巻きに嫉妬や羨望の対象として熱視線を浴びているのを何度目撃したことか。
なかには直撃する猛者もいて、そういう人種は彼らに「無視」もしくは「黙れ」という言葉を吐き捨てられて撃沈していく。
「その目って生まれつきなの?」
唯一、彼らの傍にいることが許される存在であることの優越感を覚えながら胡涅が彼らにそう聞いたときは「当たり前だろ」とバカにされた。
「ほんとに、同じ人間?」と疑うのも無理はない。
敗北を突きつけられる毎日に、人としての尊厳を見失いそうになることも少なくない。恨みがましく言ったところで、不敵に微笑まれて終わるだけ。実に悔しい。
それでも彼らのおかげで、幼少期から当たり前だったこの世界が退屈で異常なことに、ようやく気付けた。
彼らがいるから、早く点滴が終わらないかと、手持ち無沙汰の感情まで知ってしまったのはツラいところだが。
「胡涅様?」
すっかり隣まで近寄っていた保倉医師は、銀製のお盆をベッドチェストに置いて、心配そうに覗き込んでくる。
「その、様づけで呼ばれるの嫌いだから、普通に呼んでほしい」
「……胡涅ちゃん」
「ありがとう、保倉先生」
顔を赤く染めて、少し照れた雰囲気が初々しい。可愛い人だなと純粋に気持ちが緩んだ視界に、錠剤ではなく、注射器が映りこむ。
「血液検査なら抜いた血でしてくれたらいいのに」なんて、十代の少女のような言い訳を口にして、それから、眼鏡の奥にあるその目を見て、急に鼓動が跳ねた気がした。
「……………え?」
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