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レオニーが鷹の刺繍を差し出すと、マリヌスはおそるおそる受け取った。肩が落ち、血の気は消え失せ、表情は引きつっている。魔術というより怪奇現象でも目撃したかのようだ。
無理もないとレオニーは思った。自分は渦中にいたので恐ろしがる暇はなかったが、時間を置いて振り返れば恐怖が襲ってくるかもしれない。
「もう一度訊くが、殿下に苦痛はないのだな」
それでもなんとか忠実な騎士の顔に戻り、マリヌス・ヴィレムセンは何度も確認したことをまた尋ねた。
「ありません。意識を失くされていますから」
「戻られた時にも何も感じないのか?」
「祖母は何もないと言っていました。時間の流れも感じなくなっていますから、殿下にとっては今この時から魔術が解かれるまで一瞬のはずです」
レオニーは鷹の片羽の先、最後に刺して糸の始末をした部分を指差した。
「解く時はここからです。糸が少しだけ出ているのがおわかりになりますか? ここを切って、あとは一針ずつ慎重に糸を抜いてください」
「――慎重に」
「少し糸がほつれるくらいは大丈夫ですから。ただ、完全に切れてしまうのは怖いので、針や糸を扱い慣れている人にしてもらったほうがいいですね」
「ああ」
「移動中は火にだけは気をつけてください。水に濡れたり、何かの下敷きになったりするのは大丈夫です。でも、燃えてしまうのだけは駄目ですから」
「――そうだろうな」
言われなくても、マリヌスはヨリックそのものであるこの刺繍をそれは大切に扱うだろう。旅道中の宿屋でも刺繍に寝台を使わせ、自分は床で眠りそうである。
レオニーは上等の反物の残りを持ってきて、ヨリックである鷹の刺繍を慎重に包んだ。これくらいは勉強してもいいだろう。
「世話になったな」
あらためて刺繍を受け取ると、マリヌスが告げた。
「糸の残りはどうする?」
「祖母に訊いてみます。もともと祖母のものですから」
「見つからないように気をつけてくれ」
「はい。騎士さまも道中お気をつけて」
これからマリヌスは仲間たちとともに国境を越え、ノヴェッリに向かうのだ。ヨリックである刺繍を携えて。
無事に着いて刺繍の魔術が解かれた時、ヨリックが穏やかに目覚められるといいと思った。苦痛はなく一瞬のこととはいえ、意識を手放さなければならないのはやはり恐ろしいだろう。
「殿下にも、ご無事をお祈りしています」
「ありがとう」
マリヌスは生真面目な表情で言うと、包んだ鷹の刺繍を手に作業部屋の扉に向かいかけた。
レオニーはその背中に声をかける。
「騎士さま、お勘定がまだなんですけど」
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