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「もう行かれたの?」
マリヌスが裏口から出ていくと、アンネマリーが店のほうから姿を現した。
「裏口へお送りしたわ。そのほうがお仲間の馬車がいるところに近かったから」
「そう」
「刺繍は上手くいったわ、おばあちゃん」
アンネマリーが尋ねないので、レオニーは自分から告げた。
「そうでしょうね」
アンネマリーの答えはそっけなかった。レオニーの顔を見ようともせず、作業部屋に向かう。レオニーもその後を追った。
「おまえが上手くできることはわかっていたわ」
作業部屋に入り、椅子に残った赤の糸を見つめ、アンネマリーが言う。
ヨリックの手首に巻きついていたそれは、今も輪の形を残して椅子の上にある。
「わたしに関わらせたくなかったのは、王家の人たちの争いに巻き込まれて、危険な目に遭ってほしくなかったから?」
「それも理由のひとつよ。でも、それ以上に、おまえがこの別れに辛い思いをするのが心配だったの」
「お別れって、殿下と騎士さまとの?」
「おまえは年ごろだし、相手は見目の良い殿方だったでしょう。でも、所詮は王家に仕える人なのだから、深く関わってもおまえが傷つくだけだと思ったのよ」
だいぶ長い時間をかけて考えたあと、自分とマリヌスとの関係を祖母が危惧していたのだということに、レオニーはようやく気がついた。
「え? 心配って、そういうことだったの?」
「その様子を見ると、わたしの取り越し苦労だったようだけど」
「そうよ。なんだ――そんなことを心配してたの?」
拍子抜けしたのと驚きすぎたので、レオニーは思わず笑ってしまった。
マリヌス・ヴィレムセンは確かに見目は悪くなかったが、市井の娘をたらしこんで利用するような器用さはどう見ても持ちあわせていなかった。そもそもがヨリックのことしか頭にない人だったのだ。レオニーも刺繍のことしか頭になかったのだからお互いさまである。
「心配だけで済んで良かったわ」
レオニーにつられたのか、アンネマリーは小さく笑い、椅子に残った赤の糸を手に取った。
アンネマリーは、心配だけでは済まなかったのだろうか。レオニーが負うのではないかと危ぶんだ傷を、アンネマリーは実際に心に負ったことがあったのだろうか。
三十年前に、この赤の糸を使った時に。
それをどうするかとレオニーが尋ねる前に、アンネマリーは赤の糸をぞんざいにまとめ、作業台の上にあった屑籠の中に投げ入れた。
「おばあちゃん――」
「捨ててしまいましょう。できるだけ早く」
アンネマリーは両手で屑籠を持ち上げる。
魔術がかけられた赤の糸は、ヨリックの出国に関わった重大な証拠だ。先日のできごとを考えると確かに消してしまったほうがいい。残しておいても、この長さではどんな刺繍にも使えない。
「そうね、おばあちゃん」
レオニーは同意する。
屑籠の中身を捨てて、作業部屋で新しい仕事に取りかかろう。
ここは街の小さな刺繍屋であり、レオニーはひとりの平凡な刺繍職人なのだから。
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