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五 「人と人とがふれあえば、情ってもんが生まれるんだよ」3
私は緘口した時間に再び閉じこもった。
暗闇の中で携帯電話が点滅する。携帯電話の相手の名前を確かめてどきりとした。彼女からだ。電話に出てあいさつをする。昨日、神崎さんと会って話をしたことがすでに伝わっていた。今日、彼女が職場の前を通りかかり、私の机の上が休眠状態であることに気がつき、職場の人に訊ねれば、私が休んでいることを知ったという。体調でも悪いのか。神崎さんの対応が悪かったのか。と彼女が心配してくれた。
「あなた方の話を聞いて、なぜか自己嫌悪に陥りました」
私は素直に打ち明けた。
「意味がわかりません。あなたは私の味方だと言ってくれましたよね。いつから私たちは敵対関係になったのですか。私たちはそれぞれの生き方をしているのに、どうして比較されて競わなければならないのですか。比較材料も比較基準もなにも決められていないのに。どうしてそんな考え方に行き着くのか理解できません。まったく変な話だと思いませんか。あの、味方なんですよね」と強い声で言い、「嘘なんですか」と弱い声で訊ねてくる。彼女の声が波打つ。
「嘘ではありません」私は自信を持って返答した。
「良かった」彼女の声に笑みが含まれる。私は彼女の問いに救われた。
彼女のはげましが続いた。
「もう気を回しすぎて悩まないでください。自己尊厳の問題だと思います。あなたはもう私たちに認められているのですよ。そうでなければあなたと会うことなどしません。煩わしいと思っていたなら、プライベートなことですからあなたと会う必要はありません。でも、あなたは私たちと関わり、個人情報にふれた。心を開こうと思う相手でなければ心の奥底まで伝える義務はありません。私たちは出世や会社でのポストなどという欲を求めていませんから、なんにも弱みはありません。だから、あなたの誠実な努力をもっと認めてほめてあげてください。あなたの人間性は、ちゃんと私たちに受け入れられているということですよ」
澱(よど)《よど》んだ心が清んでいく快さを感じた。
自己尊厳を認められる喜びを手にすることができた。素直に感謝してしまう。
「ありがとう」の短い言葉ではあるが、心の思いを込めた言葉を彼女に伝えた。
「突然で申し訳ありませんが、実は私、最寄りの駅まで来ています。あなたと話がしたくなったので、体調が悪ければお見舞いだけでもと思ったものですから」
私はびっくりして飛び起きた。彼女が今いる場所を確認した。これから着替えてすぐに迎えに行くと伝えた。小走りになって駅へ向かう。急いでいるためか、ときめきのような気の高ぶりなのか、心拍数があがっている。胸がどきどきして激しく騒いでいる。まるで初恋の人との初デートに向かう気分だ。
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