五 「人と人とがふれあえば、情ってもんが生まれるんだよ」41

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五 「人と人とがふれあえば、情ってもんが生まれるんだよ」41

 私が思考にふけっていると、椎名先生がしゃべりだした。 「彼女は本当に幸せな環境で生活をしてたのですね」  私は思いもしなかったことを言われてどきっとした。 「どうして椎名先生はそう思われるのですか」 「だって、これだけの人があの子を心配して、こんなところまで迎えに来るほど、あの子に関心を寄せる人たちが彼女の周りにいてるってことですからね。心でつながっている新しい家族が彼女にできたってことでしょ。彼女は守られているという心の安心感を手にしたのだと思います」 「では、どうして、彼女は会社を辞めてこんなところまで一人で来たのですか」 「人は一度あげた生活のレベルを下げることに苦痛を感じるものです。一般的には金銭的なことが多いのですが、彼女の場合は心の環境になります。確か、彼女が迷惑をかけたと言っていたのでしょ。大切な人、愛する人、守りたい人、彼女にとって宝物です。しかし、今回、予期せぬトラブルに巻き込まれて大きな事件になった。見知らぬ男性に取り囲まれた恐怖も感じた。自分のことが原因で身近な人も巻き込まれている。また大事な人を失う怖さを感じていたのでしょう。杉田さんの異動の件で、彼女はとても(なげ)いて悲しんでいました。二度と失いたくない気持ちの現れです。昔のようにひとりに戻ってしまうだけ。今までのように乗り越えていける。彼女はそうやって生きてきた。経験者だから大丈夫。とはならないのですよ。幸せな時間を過ごした人には、元に戻ったとしても、振り出しに戻ったとしても、ギャップの急落感は耐えがたいものになってしまうものです。大事な人を失いたくない一念から、自分を取り巻く災いから愛する人を遠ざけようとしたのでしょうね。不器用かもしれませんが、彼女なりの愛情からくる行動でしょう。だから彼女の気持ちも理解してあげたい。でも、こんなことは二度としないでほしいわね。やはり、心配ですもの」  椎名先生の愛情がしんみりと心に伝わってきた。  ふと、神崎さんに目を向けた。神崎さんは両膝に両肘をついて、前屈みの姿勢で、じっとイスに座っている。神崎さんは貧乏揺すりを続けていた。神崎さんも彼女をこの目で見るまでは心配で気が気ではないのだ。私はゆっくり息を吐いた。
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