二 「愛しているかと訊かれると」8

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二 「愛しているかと訊かれると」8

 椎名先生との関係についてはすでに聞いている。その中で印象に残ったのは、椎名先生から初めてもらったプレゼントのことだ。  彼女がシャープペンシルの(しん)が切れて困っていたところ、椎名先生が分けてくれたという。そんなことは隣に座るクラスメイトから、シャーペンの芯がなくなったからちょうだいと言ってすませられる出来事だ。日常的な些細(ささい)なことなのに、数日過ぎれば忘れてしまいそうなことなのに、彼女は「プレゼント」と表して、大事に記憶に残し、うれしそうに語っているのだ。とても切なくなるエピソードに思えた。 「当時、ある事件が起こりました。椎名先生から聞いてますか」  私はこっくりとうなずいた。 「あのとき、私の色が消えました。お金ではなくて、私自身が消滅した気持ちに(おちい)りました。今までの努力と工夫とがんばりが一瞬で失われたと思えたのです。幼さが残る私は、もうどうしていいのかわからなくて頭が混乱していました。いまさら友達が欲しくて、わざと道化(どうけ)るようなことを考える余裕もなかったし、そんなことをしても誰も受け入れてはくれないと身にしみています。昔から反抗期をみせる勇気も時間もなかった。私は人生に追い詰められていると感じました。しかし、お金欲しさに悪いことに手を染める気はありませんでした。私の思考は壁にぶつかってしまいました。冷静に考えられず、頭の中が整理できません。どうしようかと心が途方にくれたとき、自然と足が向いたのが保健室にいる椎名先生のもとでした。椎名先生とのお話はすでに聞いているでしょうけど、実は後日談があります。私、犯人を知っているのです。事件が起きて、一ヶ月後のことです。私が体育の時間から戻ってくると、隣のロッカーの子が不機嫌そうに自分の扉を強く閉めたのです。その扉の隙間に私がお金を保管していた袋の糸くずが一本だけ挟まっていました。彼女は愛想笑いで隠したつもりでも、きつく握られた拳が口惜しい心情の表れです。おそらく今月のバイト代も盗もうとして当てが外れたのでしょうね。でも私は問い詰めることはしませんでした。問い詰めたところで、(しら)を切り通すだろうし、悪事を働く人は平気で嘘をつきます。言い逃れの材料などいくらでも考えつきますからね。みすぼらしい心の持ち主に対してなにを言っても無駄です。まず改心などしないでしょう。私自身、低い心の持ち主まで同化して落ちる気はありませんので。それに、私は椎名先生と考えた対策を実行に移していたので、二度目の実害はもう避けられました。あの事件で勉強になったのは、人間は窮地(きゅうち)に追い込まれたとき、意気消沈するか、無頓着に鈍感でいられるか、気の持ちようでその後の生き方が大きく左右されるのだと思ったことです。腐らずに生きてこられたことを椎名先生に感謝しています。人は誰か一人でも理解者や支える人がいれば、裏切らないようにと弱い自分に歯止めをきかせ、がんばっていけるものだと今でも信じています」  彼女が高校時代のエピソードを話し終えた。
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