二 「愛しているかと訊かれると」13

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二 「愛しているかと訊かれると」13

 彼女は就職前に一度だけ実家に戻った記憶を明らかにした。  真の目的は椎名先生に会いたかったからだ。  しかし、狭い田舎だからうろうろ歩いていると、誰かしら知人と出会うことになりかねない。たとえそれが彼女を忘れ去った同級生であったとしても、幽霊でも見たかのような噂で広がるだろう。  その後、噂で家族が耳にしたものなら、椎名先生に迷惑をかけることになるかもしれない。すべては椎名先生に対して配慮した決断である。  彼女の性格上、悪いことは先にすませたいとの思いから、すべての判断と行動が生まれるようだ。  当時、彼女は、家族から苦情を言われ、不満を漏らされ、罵詈雑言(ばりぞうごん)を並べられる覚悟はしていた。そこまでは想像通りの展開になった。  しかしながら、育てた恩を無理矢理売られ、お金ですべて精算しろと母親が詰め寄った。そんなお金は持ってないと彼女が断りを入れれば、音信不通、家族を(ないがし)ろにした。(おん)(あだ)で返した。そんな非人間的に育った原因は、なにもかもすべて椎名が関わったせいだと。矛先が大事な人に向かっていく。彼女は徹底した無言を破棄して、家族への仕送りを承諾することになる。生活設計を考えれば、大学への返金や椎名先生への返金、それに付け足して家族への仕送りと、負担は重なるばかりだ。それでも椎名先生への災いを回避する手段は母親の要求を受け入れるしか方法はなかった。  一度は断ち切ったはずの負の連鎖が息を吹き返して彼女を襲う。  彼女の人生や境遇を思えば、どうしてこうなってしまうのだろうと理不尽な道程に(いきどお)りを覚える。  人生はプラスとマイナスで相殺されてゼロになる。という人もいる。  果たしてそうだろうか。確かに、世の中には思いもよらぬ悲劇を背負わされている人もいる。では、負を背負った人はすでに幸せを与えられていたとでもいうのだろうか。そんなことはないでしょ。と私が思っても、彼女の(なぐさ)めにも支えにもならない。ただの絵空事(えそらごと)に似た感情にすぎないのは百も承知だ。  それでも、私は神様に問いたい。 「人はすんなりと幸せなってはいけないのでしょうか」  こんな考えを抱く私は甘っちょろい偽善者なのだろうか。現に私はなにもできない無責任な傍観者となっている。私は彼女の話を最後まで聞いてもいい権利があるのだろうか。当初、抱いた「本当の彼女を知りたい」という思いをよそに、少しずつ方向感覚を奪われていくような不安を覚えた。
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