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二 「愛しているかと訊かれると」23
彼女の心に他人に対する信頼感が生まれたことは想像にかたくない。
「人は親しみになれてくると、『我』というものを相手にぶつけることもあるのよ」
とある先輩から聞いたことがある。
他人との関わりを拒絶して生きてきた彼女にとっては、一歩前進、成長と位置づけてもいいことかもしれないが、彼女は初めて杉田さんに愚痴を言った。
職員にも当然ながらいろんなタイプの人間がいる。要領だけでうまく立ち回るタイプである。簡単な雑用を押しつけたり、後始末を他人に回したり、下になる者には口調が強くなり傲慢な態度で指図をする。なのに、上司にはころっと態度を変えて、愛想を振りまき調子のいいことを言う。
自分本位の人間と関わり合えば、周りは迷惑きわまりない。
彼女が資料のコピーやら統計の集計など都合のいいように使われて残業をしなければならないことになった。相手の男は他社との約束があるからとさっさと会社を出て行ってしまった。他の職員も便乗して都合のいい彼女に雑用を回すようになってきた。
残業が増えている彼女に杉田さんが事情を訊ねた。
彼女は正直に説明をした。その際、愚痴も含んでいたようだ。
「困ったもんだな」と杉田さんが腕組みをしてしばらく考えていた。
「とにかくどうにかします」と杉田さんが伝えた数日後に、彼女の負担は自然と軽減された。なにかマジックでも使ったとしか思えない気がした。
その後、彼女はお礼を含めて杉田さんと話をした際、彼女が意地悪な質問を杉田さんにぶつけた。
「もし、私が頼まれた作業をわざとしなければどうなりますか」
どんな返答がくるのか、半ば楽しみにしながら杉田さんを見つめた。
「困ったな。課としては達成しなければならない仕事があります。誰かがしなければならない。もし誰もしなければ、僕が一人ですることになるだろうね。そこまで追い詰められたなら、上司としては失格だが、できれば三田さんに手伝ってもらえると助かります」
杉田さんが申し訳なさそうに言う。
「変な質問をして申し訳ありません」
彼女は恐縮して、謝ったらしい。その反面、うれしさも込み上げてきたようだ。自分を必要としている人が目の前にいる。彼女は自分の存在価値を見いだして、存在意義を感じ、必要とされる実感が湧き、まるで天にものぼる飛翔を感じたという。
それ以来、彼女は同僚を責められなくなったと同時に、杉田さんのために、今の自分よりも強くなりたいと切に願ったと告白した。
頼られる喜びと頼りたい安心は一対となって現れてくるものだ。
杉田さんはプライベートの悩みを打ち明けられるような存在になった。
恋とはこんなふうに始まるのだろう。将来という漠然とした思いと、お嫁さんになりたいう一種のあこがれが見え隠れする。
彼女から人間味のある親しみを感じさせる要素は、すべて杉田さんの存在が起因していると推測が成り立つ。
やはり恋は偉大だ。
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