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三 「君がそこまで言うのなら」25
杉田さんは異動した当初の頃に話を戻した。
初日、早めに出勤したとき、彼女がすでに出勤しており、朝のあいさつをすると、ぎょっとしたように目を開いて、驚いた顔をしていました。あいさつ程度であんなに驚くとは、どんな上司が来ると思っていたのだろうかと、自分の評判が気になったほどでした。それは私が勘違いしていたとあとでわかりました。よくないことですが、職場では誰も彼女にあいさつをしなくなっていたのです。長年、会社の行事とか飲み会とかつきあいとかを断ってきたことが原因でしたが、それとこれは違うだろうと私は思っていました。公私の時間は分けて考えないとだめでしょ。私はごく自然な行為として、当たり前のこととして、毎朝、彼女にあいさつをしました。
ある日、ふと気づいたのですが、毎朝、出勤をすると、彼女がデスクやテーブルを拭いていたり、ポットのお水を入れ替えてすでに沸かしていたり、新聞はテーブルにきちんと並べられていたり、すぐに勤務態勢がとれる状態に整理されていました。
毎日、彼女だけに準備をさせていて、誰も気づいていないのかと思ったので、当番制にしようかと彼女に言ったことがありますが、お気遣いなく。と彼女にあっさり断られました。
余計なことを言ったのかなと心配しましたが、次の日、彼女のあいさつは明るくてきびきびとした声量になったような気がしました。
あるとき、私が普通に言ったことで、とても彼女に驚かれたことがあります。部下を見ている上司なら当然のこととしてわかるはずですが、とにかく彼女は驚いていました。
「毎日、よくがんばっているね。でも、体に無理しない程度にがんばってください」
彼女が目を見張って驚きの表情を私に向けました。
「どうしたのですか」と訊ねれば、「そんなことを言われたのは初めてです。ありがとうございます」と頭を下げられて、彼女からお礼を言われました。そんな礼を言われるようなことではないだろと思ったのですが、彼女にとっては、普通の出来事、当たり前のことが日常的ではなかったようです。今まで、どれだけ虐げられてきたんだよ。と昔の仲間になら冗談ぽく言えますが、彼女に対してはそんな馴れ馴れしい言葉は言えませんからね。口を噤んで笑みだけを向けました。
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