兄、永太

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 うっ。イタ……。ぎりりと締め付けられるような頭痛に顔を歪ませながら永太が目覚めると、薄暗く艶かしい照明に包まれたベッドの上だった。 (あれっ……? 俺、まさか……)  上体を起こしたその視線は、妙な違和感と臭いを辿るように床に向いた。 「ひぃっっ!!」  バーで一緒に飲んでいた美女が、乱れた下着姿の腹に包丁が突き刺ささったまま、血みどろで横たわっている。  恐怖に飛び上がる永太に、人影が忍び寄った。 「大丈夫です」  声の主に焦点を合わせると、これまた見ず知らずの女だった。長い黒髪をだらんと垂らし、不気味に微笑みかけてくる。 「永太さん、安心して。彼女のこと、確かにあなたが殺しましたけど、誰にも言いませんわ」 「はっ……? へっ……? ころ、ころし……、お、俺が……?」  自分の両掌を見た。ベッタリと血液が付いている。そこで初めて自分の胴体が目に入った。乱れたワイシャツは、返り血を浴びていた。 「っひぎゃぁぁっっ!!」  思わず目を背けると、女はゆっくり、そうっと永太を抱き締めて耳元で囁いた。 「大丈夫。マユさんにも、警察にも職場にも、だあれにも言いません。この女はね、死んで当然の、わるうい女なの。誰も探しません。私が全て葬り去りますわ。安心して、永太さん」  黒髪女の猫撫で声がねっとりと耳に纏わりつく。永太はただ、はっ、はっと、呼吸の仕方を探すので精一杯だ。女は永太の頭をゆっくりと撫でて、その手を頬で止めた。 「ただ、一つだけ、条件があるの」 「ま、ま、待ってくれ。えっと……ま、まず、君は、誰だ? 俺は、こ、殺してなんかいない」 「いいえ、あなたが殺したのよ」  女は永太の頬から手を離し、今度は腹に付いた血液を撫でる。布団の下の裸の下半身に触れそうな手つきで、指を這わす。 「バーで私も合流したのを覚えてらっしゃらない? あなたは、マユさんという素敵なお相手がありながら、私の友人、そこで無様に朽ちている彼女を抱いたのよね。一夜限りのつもりだった。ところが、彼女はしつこくあなたに結婚を迫った。結婚してくれなければここで死ぬと、包丁まで持ち出した。ふふ。それが彼女の常套手段なのね。ほとほと困り果てたあなたは、ドスンと一突き。私がこの目で見ましたから、間違いありませんわ」  黒髪女は、永太の眼前にスマートフォンをすっと寄越した。画面から、女の言った通りの一部始終が流れる。 「そそそんな、まさか……!」 「大丈夫。だあれにも口外しません。あのご遺体も、綺麗さっぱり私が処分いたします。あなたは浮気などしていないし、殺人などしていません」  永太の聴覚に女の声が注がれる。 「ただね、永太さん。一つだけ、たった一つだけ条件があるの。聞いて下さる?」 「ち、ちょっと待ってくれ……何かの間違いだ! 俺は何もしていない!」 「……そう。では、このまま通報いたしましょうか? それとも、まずはマユさんに相談するのがいいかしら」 「マユ……だめだ、マユには! いや、どうして君がマユを知ってるんだ!?」 「ふふ。あなたが散々、俺にはマユがいるだとか、喚いていたんじゃない」 「ぐうぅ……! イタタ。俺はあのバーの途中から記憶がないんだ! きっと何かを飲まされた。濡れ衣を着せられたんだ!」 「では、警察でそのようにお話されてはいかがですか? 私は、友人が、酒癖の悪い男に弄ばれた末に殺されたと、泣きながら訴えますけれど。ふふ。あなたは血まみれ、彼女の中にはあなたの体液。この状況で、警察はどちらの話を信じるでしょうね?」 「ぐっ…………」  永太は混乱して何一つ整理できない。おまけに、頭を抱え込む度、ワイシャツにこびり付いた血液が目に飛び込んで来る。全て無かったことにできるなら、それに越したことはないのか……。そんな考えが、永太の脳を支配し始めた。  黒髪女は、永太の血まみれの両手をふんわりと包んで微笑んだ。 「大丈夫。あなたはなあんにも、していない。たった一つの条件をクリアさえすればいいのです」  永太はぐっと頭を沈めた。思い切り目を瞑り、通報した場合、自首した場合、マユのこと、仕事のこと、家族、世間……様々な運命パターンを想像の中で巡らせる。  ……どの道、明るい未来は想像できなかった。 「……条件って、何だよ……」  永太がぽつりと告げる。  女は永太の両手をぐっと握り直し、にんまりと微笑んだ。 「それでこそ永太さん。条件はね。私と結婚することですわ」
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