雨に紛れるは彼の声

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 不思議な透明感を持った人だった。大学で見かける時はいつも一人で、どこか周りとは隔絶された空気を纏っていた。講義中も、私語はおろかうとうとしているところすら目にしたことがない。真面目だと評せばそのとおりなのだけど、それだけで終わらせるにはなぜか惜しいように思えた。  つまり、自分は彼に興味を抱いたのだろう。友人も口数も多く、欲も思想も雑多な僕とはまったく違ったタイプの彼に。  けれど話しかけるには、彼はあまりに遠すぎた。接点がないのである。突然声をかけたら驚かれやしないか。ならば他に自然な方法はないか。考えているうちに友人に話しかけられ、結局機会を逃すのが常だった。それでもずっと僕の心に彼の存在は留まり、そこだけ切り取られたかのように清浄だった。  ある日、雨が降った。時刻は午後六時。講義後に教授に呼び止められた僕は、専門的な話と他愛のない話を織り交ぜ気づけばこんな時間まで居座ってしまっていた。出口から一歩足を出そうとして思いとどまる。見上げた空はこの季節の時間帯にしては薄暗く、帰宅を躊躇う程度には十分な雨が落ちてきていた。  傘は無い。少なくとも今朝見た天気予報はそんな指示を出していなかった。とはいえ自分のカバンは防水性だし、その気になれば走って帰ることも可能だろう。そう思い、足に力を込めた時――。  ばしゃばしゃと泥を跳ね散らしながら、駆けてくる人影を見た。どうやら自分の立っているドアを目指しているようである。場所を譲り先んじて開けてやると、「ありがとうございます」と低く小さな声が僕の前を通り過ぎた。  心臓が大きく鼓動した。あの人だ。そうわかった。  雨に走り出そうとしていた足は、今や縫い止められたかのごとく地面に貼りついている。僕の胸を鷲掴みにしていたのは一つの期待。それだけが、未だ僕を空っぽの大学構内に留めさせていた。  まもなく、廊下の奥からぺたぺたとした足音が聞こえ始める。ドキッとして顔を上げた。雨に濡れそぼった髪を顔にべったりと張りつけた彼が、こちらに向かってきていた。 「……あ」  僕に気づいた彼が、軽く頭を下げる。そしてそのまま、ドアを抜けて外に出ようとした。 「待って待って」  慌てて腕を掴む。「はい」と素直に応じた彼は、キョトンとした顔で僕を見下ろした。 「外、まだ雨が降ってるけど」 「はい」 「このまま出てったら濡れるよ?」 「でも、僕は傘を持っていません。それにもう濡れてるんで……」 「だからってこれ以上濡れることはないだろ」  カバンからタオルを取り出し、押しつける。手に乗った布をしげしげと見つめる彼に、急いで説明した。 「それ、まだ使ってないから。とりあえず顔と頭だけでも拭いたら?」 「いえ、悪いです」 「いいよ。洗って、今度会った時に返してくれたら」 「今度……」  口に出してから「しまった」と思った。時々講義で一緒になるぐらいの自分を彼が知っているはずがない。むしろなぜ自分が知っているのか、疑問に思われたんじゃないか?  しかし意外にも、彼はすんなり頷いた。 「……それもそうですね。では、明後日の講義の時に」 「え」 「都合が悪いですか?」 「や、そうじゃなくて。……よく知ってたね。その時間僕と一緒になるって」 「……確かに」指摘されて初めて気づいたといった顔をする。 「あなたは、よく目立つので」 「目立つ? 僕が?」 「声が大きくて……友達も多いので」 「ええ、そうかなぁ。考えたこともなかったけど」 「……」  突然会話が終わる。何か不機嫌になるようなことを言ってしまったのかと勘繰ったが、そうではないらしい。彼は、じっと僕の次の言葉を待っていた。  思うに、これが彼の速度なのだろう。話が終わったと判断すれば自分の言葉を切り、相手の反応を待つ。普段友人とのテンポの良いやり取りに慣れていた僕としては面食らったが、もう少し会話を続けたくて新たな切り口を探すことにした。 「えっと……雨、いつやむかな」 「わかりません」 「そっか、そうだよね。天気予報も外れたし……」 「……」 「……家、近いの?」 「走れば……十分ほどかと」 「走って十分? 体力あるね」 「いえ。……」 「……その、どうしてこの時間に大学に?」 「課題を講義室に忘れたので、取りに来ました」 「へえ、意外。忘れ物とかしなさそうなのに」 「……」 「……」  ――打ち上げて弾けるだけの言葉と、その隙間を埋める雨の音を聞いている。いつもの僕なら、進まぬ会話に焦れて早々にこの場を去っていたかもしれない。なのに今は、彼がそこに立って僕の言葉を待っている時間と雨音に、例えようもない奇妙な心地よさを感じていた。  上空数千メートルから落ちてきた雨粒が地面を跳ねる。次から次へと弾けては、地表近くを覆う霧になる。空を塗り潰した灰色はどこにも行く気配がなく、僕らを眼下に浮かんでいる。 (雨って、こんな音だったのか)  物静かな彼といると、雨の降る世界がずっと鮮やかに耳に残った。当たり前の中に潜んで見逃されていた美しさに気付かされ、心の芯に沁むのだ。  そしてこちらは、正真正銘今日知ったこと。 (……この人は、こんな声だったのか)  それは雨にかき消されかねないほどに繊細なものだった。この声は、きっと晴れた空の下でこそふさわしいのだろう。そう思ったものの、さりとて会話を切り上げようという気にもなれなかったのである。  今はただ、雨に紛れる彼の声を聞いていたかった。重たげな色をした雲に目をやって、もうしばらくの間だけそこに留まってくれるよう僕は願っていたのである。
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