最後の家路

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

最後の家路

 あの夜、僕は君を呼び出した。まだ幼い僕にとって、真夜中の静けさは、想像以上に心細いものだった。街灯のあかりが君の姿を浮かび上がらせる。それを見た瞬間、安堵の気持ちが芽生え、思わず頬が緩んだ。照れ笑いを隠すように、うつむきながら君に手をあげてみせた。学校でまともに会話すらしたことがなかった君との時間。それはとてもギクシャクしたもので、主役を務める沈黙と脇役の雑談が不格好に入り混じった。  夏がもうそこまで近づいているというのに、真夜中の気温は意外にも肌寒かった。 「僕たち、大人になったら、何になってるだろうね」  ふと、君に尋ねたくなった。それは自分に向けた問いだったのかもしれない。 「――笑っていられれば、それでいいかな」  そう言って君は小さく頷いた。 「そうなるといいね」  二人の会話が夜の(とばり)に吸い込まれていく。足元には伸びた影。僕は立ち止まり、ぼんやりとそれを見つめる。君は消え入るような声で「じゃあね」と呟き、振り返ることなく歩いていった。目の前の角を曲がれば、そこは君の家。僕にはやらなきゃいけないことがある。ただ、君にとってそれは、あまりにも残酷なこと。きっと君が望んだものを破壊してしまう。 「クソ……」  脳裏に父の顔が浮かんだ。それが打ち鳴らされた撃鉄だと言わんばかり、僕は走り出した。君を追いかけるため。  角を曲がると、そこに君の姿はなかった。視界には走り去る軽トラックの後ろ姿。月明かりから逃げるように、小ぶりな家具をいくつか積んだトラックはスピードを上げて走っていった。  空には呆けたような月。僕はゆっくりと歩き出し、手の届かぬトラックの残影を追う。左手に君の家が見えた。正しくは君が住んでいた家。玄関ドアは開け放たれ、乱れた履物が玄関から飛び出していた。  もう、君はいないんだな。  所在なく家路を歩く。再び訪れた真夜中の心細さ。家に帰るのが死ぬほど憂鬱だった。父から託されたおつかい(・・・・)がうまくいかなかったからだ。酷い仕打ちが待っているだろう。でも、もう慣れたもんだ。  君との会話を反芻しながら、さっきまですぐそばにあった君の温度を思い出してみた。  それはある日の昼下がりだった。  ポケットに手を突っ込み、ぶらぶらとひとり街を歩いているとき、向こうから君は現れた。あれから何年が経ったのだろう。すっかり変わってしまった君。いや、何ひとつ変わらない君がいた。  当時のあどけなさなど微塵も残さない僕を見て、それでも君は僕と気づいたのだろう。僕の視線を黙って受け止めてくれた。 「やぁ」  あの夜と同じように、照れながら僕は君に手をあげてみせた。  ほんの少しの時間、僕らはそこに立ち止まり、他愛もない会話をした。昔のこと、今のこと、未来のこと。話下手な僕はうまく話題を広げることもできず、気づけば沈黙ばかりが目立った。モジモジする僕を見かねたのか、君は「そろそろ行くね」と会釈し、歩きはじめた。立ち尽くす僕は、まるであの夜の再現のように、君の背中を見つめていた。  角のタバコ屋を曲がる君。このまま何もしなければ、二度と君に会えないだろう。果たしてそれでいいのだろうか。  あろうことか、こんなにも感傷的な刹那でさえ、父の顔が割って入ってきた。自分ではない何者かに支配され切った自分を呪いたくなった。 「クソ……」  僕は走り出し、君を追いかけた。  あの角を曲がったとき、君はいなくなっていればいいのに。僕の世界からいなくなっていればいいのに。ファンタジーのような願いを込め、角を曲がる。そんな僕の期待は見事に裏切られた。君の小さな背中がそこにはあった。僕は衝動的に君の手を掴む。驚いた君が振り向く。 「お金……」  思わず漏れた僕の言葉。それを聞いた君の瞳が、一瞬にして涙で滲んだ。 「俺、結局、父親と同じ道を行くことになったんだ」  君のお父さんは事業に失敗し、多額の借金を背負った。貧しさから脱するための、起死回生の事業。無惨にも失敗に終わり、返すアテのない借金をつくった。銀行からは金が借りられず、仕方なく裏の社会に頼ることになった。何ひとつ悪いことなんてしていないのに、逃げなきゃいけない人生。きっと何か間違っている。いや、何もかもが間違っているんだろう。そうに違いない。 「ごめんなさい」  涙が君の頬を伝った。それを見た僕は、頭の中にこんな映像を流してみた。  手にしたピストルで父を撃ち抜くシーン。そしてそのあとに、自らのこめかみを撃ち抜く。呆けた月明かりが血を洗い流し、何事もなかったように真夜中の静けさがすべてを包み込む。誰も何も背負わなくていいよと囁きながら。 「君にはいつまでも笑っていて欲しいから」  僕は君の手を離した。  父からはあの夜、君を拘束し、家に連れて来いと命じられていた。そしてあの日以来、這ってでも君を探し出し、借金の肩代わりをさせろと命じられている。父が設けた期限が、偶然にも今日だった。奇跡としか呼べないチャンス。これを逃せば僕に未来はない。君の手を離してしまうなんてもってのほかだ。  逃げろ。  そう心の中で叫んだときだった。あろうことか君は、自ら僕の胸へと飛び込んできた。つらい日々に耐え続けてきたのだろう。声をあげて泣く君。もう二度と逃すまいと君を強く抱きしめた。それは父の指示に従うためじゃなく、僕の本心に従うために。  逃げよう。  そう言いかけて口をつぐんだ。これ以上、君の人生をかき乱すことはできない。  街なかで激しく抱き合う男女を、物珍しそうに見て歩く通行人。どこかで打ち鳴らされる車のクラクション。再び感じることができた君の体温。あの日、抱いた安堵の気持ち。 「ありがとう」  感謝される資格すらない僕に、君は潤んだ目で笑ってみせた。 「じゃあ」 「またね」 「いつかね」  そう言って僕らは別れた。雑踏の中に飲み込まれていく君。再び僕たちは別々の道をゆく。二度と交わることがない道を。  陽が落ちていき、重い影がさす街を歩きながら、さっき頭の中で流した映像を現実にするべく、最後の家路についた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!