1 治療師アイユーブ

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1 治療師アイユーブ

 ここらあたりでは少しは名の知れた癒しの魔法使い「治療師」のアイユーブは、今朝いつもよりも少しだけ早くに目が覚めた。  夢見が悪かったせいか起き抜けから切ない感情が胸に寄せていたが、あえて意識せずにいたら内容まではもう煙のように消え思い出せなくなった。  窓の外は昨日までの快晴が嘘のようにどんよりとした曇り空で、開け放った窓から吹く風はひんやりと冷たかった。こんな天気の日には、じくりと右足の古傷が痛む。 『今日はひと雨きそうだな』  脛のあたりを摩りながら独り言を呟いた、そのはずだった。 「……っ?」  綿毛のように白っぽい睫毛をふさふさぱちくりさせてアイユーブは小首をかしげる。  成人男性にしては品良く小さな口が、陸にあげられた魚のようにぱくぱくと空だけを食み、思わず我が喉を掌で掴んだ。 (どうしてだ? 声が出ない?)  前日にボルタの親父の店で深酒したわけでも、酷い風邪を引いたわけでもない。しかしこれほど急に声が全くでなくなるなど、まるで心当たりがない。  そもそもアイユーブは酒が強いほうでない。それに深酒など、故郷の母より口やかましい弟子のダウワースが許すはずもない。 (はて、どうしたものかな?)  考えてみたら今朝は目覚めからしていつもと違っていた。  普段は起き抜けに硬い寝台の上で棒切みたいに細い手足をめいいっぱい伸ばし、「うぎゃ、うーーーんっぐあああ」と絶叫する。まるで生まれたばかりの赤子のように思い切り暴れて目覚めるのだ。これで寝ぼけた頭が効率よく醒める。  家兼診療所があるのは右を見ても左を見ても小さな家々がひしめく平民街の端っこで、窓を開ければすぐ真下に共同の井戸がある。朝から近所の奥方で賑わっている中、壁と壁に囲まれた広場に奇声が反響してもお構いなしだ。  するとだいたい日の出とともに起き出して、身体が鈍らぬようにと日課の剣術の鍛錬をしてから戻ってくるダウワースが、大きな身体を寝室の戸口に丸めるようにして入ってくる。 『師匠、朝からそんな大声を出すのはやめてください。隣りのビジュリ婆さんの心臓が止まりますよ』と黒すぐりの実のように深い赤みを帯びた瞳を細め、呆れ声で叱られる。 「ビジュリ婆さんはこないだ、靴を片方咥えて逃げた犬を追いかけまわしてただろ。元気息災、絶対心臓が止まるはずないさ」  そんな風に嘯けば、筋肉がぼこっと隆起する逞しい腕を組んで弟子は微笑する。  それは大抵こちらが見惚れるような柔和な笑顔だ。そして優しく促される。 「さあ、アイユーブ。早く起きてきてください。朝食にしましょう」と。  毎朝毎朝。繰り返される穏やかで他愛ないやり取り。  アイユーブは平凡な日々の営みを愛している。  だからこそ、今朝は非常にすっきりしなかった。 (はて? 昨日の晩なんだかむずむずした感じがあったが、あれが呪いの発動の影響だったのか。魔法使いに登録した直後にはよく呪われたもんだが、あれから何年も間が開き過ぎてて、正直よく分からん)  どうにも寝覚めが悪くて普段に輪をかけてぼーっとしてしまう。  そもそも昼日中でもぼんやりしていることも多いアイユーブは治療の腕はいいが衣食住、身の回りに構うことの能力が乏しいところがある。  寝相が悪いせいで起き抜けには髪の毛はまるで鳥の巣のようにくしゃくしゃだ。  アイユーブは薄暗いところでは光沢が消えつ白髪と見間違われる銀色の頭をのんびりとした仕草でぽりぽりと搔いた。  試しにもう一度、そろそろ帰宅して自分を起こしに来るはずのダウワースを呼んでみる。 「……っ」  やはり声は出ない。  確かに発声してる吐息が零れているのに、音を結ぶ前に霧散している感覚を受けた。  『小うるさいダウワースやーい』なんてこの機に乗じて文句を言ってみたが、何度か試してみても同じことだ。 (もしかしてこれは、やはり。やられた……、のかな?)  どうしたものかと喚き慌てふためいてもみたいが、何しろ声が出ない。  丹田に意識を集中し、魔力を巡らせるが喉の辺りに魔力の隔たりがあるようだ。かあっと熱くはなるが跳ね返されてつきんっと頭が痛んだ。 (それにしても、声かあ……。結構でかいものを奪われたもんだな……)
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