8 蘇る記憶

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「この方に服を見繕ってくれ」 「分かりました。お任せくださいませ」  流石に上着の下の恥ずかしい服装を見せるわけにはいかないので、アイユーブは上等な天鵞絨の幕の向こう、与えられた服を大人しく着た。  渡された服を広げてみてからとんでもない勘違いをされていると気がつく。だが従兄のせいで着せられたイヤらしい服よりは何倍もマシだと、渋々明るい蜂蜜色のそれを身に着ける。  出ていくのがまた恥ずかしかったが、顔を覗かせたら女性に幕を大きく開かれてしまった。 「まああ! お嬢様! すごくよくお似合いですよ。まるで花のように麗しい。その服はマーイルから取り寄せた新作で、船で昨日付いたばかりなのですよ」  お嬢様とは、と思うが仕方がない。渡された服はドレスと呼べるほど華美なものだった。  しかしも残念なことに胸元以外は身体にぴったりだ。  この店に入ってから声も出していないしアイユーブは王都の男たちよりずっと華奢だ。二十代になってからも背が伸びると期待していたのにたいして大きくならなかった。剣術の訓練をしなくなってから一気に筋肉が落ちたし、何しろ今声を出していないので元より女顔だから間違えられても仕方がない。  弟子の方を見たら握った拳を口元に当てて、肩を震わせていた。 (ダウワースのやつ、きちんと説明しなかったな)  ここはひとつやり返してやろうと、きっと品行方正で生家で自慢の息子で通っているであろうダウワースの胸元に商売女のような仕草でしなだれかかってやった。  さぞや困惑しているだろうと顔を見てやろうと思ったら、ぐいっと肩を掴まれもっと強く抱き寄せられてしまった。そのままいつものように愛情すら感じる手つきで髪を撫ぜられ、頭の上に口づけを落とされた気配がする。 「俺の大切な人に、素敵な服を見立ててくれてありがとう」 「まあ、ダウワース様。美しいお嬢様とお幸せな様子ですね」 (違う!)  否定してやりたかったが声が出ない。もしかしたら先ほど口づけを拒否したことへの意趣返しかもしれない。弟子の思いのほか意地悪な仕打ちにアイユーブは唇を尖らせた。  弟子と師匠といっても実際二人の年の差はスィラージュとアイユーブほども離れていない。ひとたび外に出れば世慣れているのは彼の方だ。 「……!」  ひうっと声が出そうになったが、勿論音は結ばない。そのまま弟子の逞しい腕に膝を掬われ抱き上げられてしまった。  外で控えていた馬車に先にアイユーブを乗せるとダウワースはお抱えの馬ていに指示を出している。 「一度平民街へ行くが、その後別邸へ向かう」 (はい? お前何を言い出すんだ)  聞いてないと座面を叩いたが、ダウワースはまたあの怖い顔のままさっさと馬車に乗り込んできた。 「一度診療所に寄りますが、当面休診の張り紙をしたらすぐに出ましょう。こんな妙な呪いをかけてきた相手に貴方が万が一かどわかされでもしたら大変です。小さいですが商談用に結界の行き届いた家があります。解呪までそこで過ごしてください」 『ダウワース! 俺は診療所を離れないぞ』  ぱくぱく口を動かしてなんとか身振り手振りで気持ちを伝えようとするが、ダウワースは窓の向こうを見つめてむっつり黙り込んでいる。  大分時間が経ち、行きの行程を考えたらもうじき診療所につくのではないかという程度には時が流れた。しびれを切らしたアイユーブは彼に飛びついた。 『ダウワース! こっち向け』  シャツの襟ぐりを掴んで引き寄せたら、雨でも落ちてきそうな午後の曇り空の下は暗く、ダウワースの精悍な顔も暗くて表情が読み取りにくい。 「不便ですよね、アイユーブ。また喋れるようになりたいですか?」  仕方なくアイユーブは先ほど去り際に女性に髪に強引に差し込まれた明るい黄色の花を模した髪飾りをむしりながら素直に頷いた。 「じゃあ、貴方から、俺に口づけて」 「っ!」  身体を離そうとしたら両手首をきつくダウワースの片手で戒められた。この後喋ることができないと、隣近所のみんなに当分診療所を休まねばならないことを伝えられない。それにダウワースと話をしなければならない事があるのだ。 (こいつ、調子に乗って! 俺から口付けろだと。ダウワースからされた方がどれだけましだろう)  そんな風に弱音を吐きそうだ。アイユーブはこの年になるまで自分から人に口づけをしたことがない。口付けには胸の中でまだ解消しきれぬ苦い思い出があって、自分からそれをするのは酷く後ろめたい気持ちになる。  握られた手頸から伝わる熱は冷めず、ダウワースは離した手を口づけしやすいように頭の後ろに大きな手を回してアイユーブの動きを待っているようだ。 (これは必要な治療だから)  そんな風に自分に言い聞かせる。朝された時は急なことだったしそこまで思い至れなかったが今は違う。自分から能動的に行う行為の裏で、胸の奥にしまっていたあの美しい神殿の片隅で繰り広げられた睦言が脳裏によみがえる。 『アイユーブ、愛しいアイユーブ。生涯私の傍に』  アイユーブはぎゅっと瞳を瞑るとゆっくりと青年の高潔な唇に自らのそれを押し当てていった。
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